イエス様の生涯と愛 第24話
イエス様とマリヤの立場
神様を中心とした三位一体(神様、アダム、エバ)が崩れたので、これを再び探し立てなければなりません。それでアダムの代わりとして立てられた存在が、イエス様です。アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるために、イエス様が来られたのです。このような内容も知らずに、イエス様が神様だというのですか。神様が神様に祈りますか。「アバ、父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)と祈ることができるでしょうか。
神様は二人でしょうか。それならば、イエス様が十字架に釘打たれて亡くなるとき、神様御自身が十字架を負われたのではないですか。このような矛盾だらけのでたらめな内容を信じると言っているのですから、現在の知性人たちから追われるしかないのです。
本来人間が堕落しなかったら、誰が父になるのでしょうか。神様です。神様が父になるのです。ところが、今は誰が父になっていますか。サタンです。堕落することによって、サタンが父になったのです。したがって、すべて神様の子女に復帰しなければならないのです。サタンを中心として展開していくこの世は、すべて神様のみ旨とは一致しない恩讐の世界なので、これをすべてひっくり返して、本来の姿を備えた息子、娘を中心として、本然の国家と世界をつくらなければなりません。そのためにイエス様が来られたのです。それなのに、イエス様が死んでよいのでしょうか。
ではイエス様は、この地上に来られて、どのように蕩減復帰すべきでしょうか。蕩減復帰の原則から探ってみると、初めにサタンがエバを引き込み、その次にアダムを引き込みました。これを蕩減復帰するためには、どうすべきでしょうか。エバを奪われたので、奪われたエバを元に取り戻さなければならないのです。ところが、天地創造の原則により、アダムを見本としてエバを造られたので、蕩減復帰をしようとするならば、アダムの創造のような役事がなければならないのです。その方が、四千年間準備した基盤の上に送られたイエス様です。
イエス様は、アダムが失ったものを復帰するために再創造された、堕落していない第二次アダムなのです。コリント人への第一の手紙第十五章45節に、「最初の人アダムは生きたものとなった.....しかし最後のアダムは命を与える霊となった」と記録されています。
では第二のアダムとは、何でしょうか。堕落していない父母です。このような点から見ると、マリヤはエバの代わりの立場なのです。ですからエバがアダムを殺したので、それを蕩減復帰するためには、エバの立場に立ったマリヤがアダムの代わりであるイエス様を再び生まなければならないのです。
ではヨセフは、何の立場でしょうか。天使長の立場です。エデンの園において、天使長は神様を中心としてアダムとエバに侍ってあがめるべき立場にあったので、天使長の立場に立ったヨセフは、神様を中心として蕩減復帰の原則によって、イエス様とマリヤに侍って敬わなければならないのです。蕩減復帰の原則がそうなっているのです。
それならば、マリヤとヨセフは一緒に暮らすべきでしょうか、一緒に暮らしてはいけないでしょうか。本来は一緒に暮らしてはいけないのです。
イエス様の事情
イエス様は家を出て一人で歩き回ったので、どんなにあきれたことでしょう。神様が四千年かけて準備したその国は、どこへ行ったのでしょうか。それでも四千年の間、国を建てたのは、その基台の上にイエス様を送り、イエス様を中心として世界を救うために神様が準備されたのです。それにもかかわらずその国が排斥し、四千年間準備したこのユダヤ教が排斥したのです。
ヨセフの家庭を中心として、信頼の焦点(中心)として知ってついてきてくれることを望んだのですが、排斥するのですからどうしますか。ですからイエス様はあきれるでしょうか、あきれないでしょうか。彼らが歓迎しない立場に立ったので、どうなったでしょうか。国に期待しても希望が途切れ、教会に期待しても希望が途切れ、親戚に期待しても希望が途切れて、行こうとしても行けないようにすべてふさがってしまったので、仕方なく土窟を訪ねていき、貧民窟を訪ねていかなければならない身の上になったのです。ですからあきれたでしょうか、あきれなかったでしょうか。
イエス様が家を出て一人で歩き回るので、どれほどおなかがすいたでしょうか。そのような自分自身に対して、どれほどあきれたでしょうか。その上に家を出てきたので、再び帰ることもできない立場でした。聖書にイエス様が家に入って、兄弟たちと楽しく話をして、自分の行った奇跡を自慢したという内容がありますか。そのような内容がどこにありますか。
三年間ぼろを着て歩き回りながら、自分の親戚を抱き締めて話したことがあるかというのです。故郷の山河を訪ねていき、三十年の生涯に自分を育ててくれ、愛情をかけてくれたその母と夜を明かして話をした時があったでしょうか。イエス様が来たといって、ある日、母が餅を作り、祝宴を開いてイエス様を歓迎したという内容が、聖書にあるでしょうか。本当にあきれてしまうのです。
イエス様は家を出たので、おなかもすき、物悲しかったことでしょう。そのとき、近い親戚の家で婚姻の祝宴が開かれるからと、そこへ行くことになったのですが、そこはガリラヤのカナの婚姻の祝宴をする家でした。その家は母マリヤのとても近い親戚の家だったのですが、イエス様はおなかもすいていたので、御飯も食べお餅も食べようとして行ったのです。そこで、ぶどう酒を作る奇跡を起こしました。
そのときマリヤは、台所に酒がなくなったことを知って、イエス様にぶどう酒がないと言いました。ところがマリヤは、イエス様のことが好きで、神様の息子で能力が長けているので、ぶどう酒を作ってくれるものと思って頼んだと思いますか。マリヤがイエス様のことを、能力に長けた神様の立派な息子、能力を自由自在に発揮できる聖なるイエス様と思って、ぶどう酒がないと言ったと思いますか。哀れにも、もらって食べようとやって来て、それを期待して待っているような姿に見えたので、期待するなという意味でそのようなことを言ったのです。そのようにも言えるでしょう?よくも解釈できれば、悪くも解釈できるのです。
当時イエス様はおなかがすいていたでしょうか、すいていなかったでしょうか。誰か付き従いながら食事を出してくれた人がいたでしょうか。恵みを受けようという人たちはたくさんいて、イエス様を利用しようとする人たちはたくさんいました。しかし、暑ければ暑くはないか、寒ければ寒くはないか、おなかがすけばおなかがすいていないか、困難であれば困難ではないかと、先を争って進みながら、むちで打たれるとしても自分が打たれ、困難があったとしてもその困難を自分がかぶり、イエス様の悲運を代わりに担当しようという人が一人でもいたのでしょうか。