イエス様の生涯と愛 第23話

第三章 イエス様の三十年の準備時代

一、イエス様の家庭事情

 

正しく知ってイエス様を信じるべき

聖書を見れば、イエス様の生涯の記録は三年の公生涯から始まります。その前に、イエス様の誕生についてとか、十二歳にエルサレムに行ってきたという若干の記録はありますが、それは問題にもならないほどです。

それよりも三十歳になるまでの間、何をしたのか、家では和やかに育ったのか、両親は愛してくれたのか、兄弟の仲が良かったのか、遠い親戚までイエス様を尊敬したかなどの内容は、一つも分からないのです。そのような内容は、聖書に記録されておらず、ぷっつりと切れてしまっています。

なぜこのような話をするのかというと、歴史は正しく明らかにされなければならないからです。自分の両親が国の逆賊ならば、逆賊であると明らかにしなければならないのです。

キリスト教の中心であられる、イエス様について知らなければなりません。その方の歴史について論じようとするのではなく、ただその背後がどのようなものだったのかについて調べようとするだけです。背後が正しくなっているのか、それとも誤っているのかという過去の歴史を知ってこそ、今歩んでいる方向が正しい方向に進んでいるのか、正しい結果として決定されるのかを推し量ることができるので、このような話をするのです。

イエス様の三十年の生涯路程は、ほとんど聖書に記録されていません。聖書の四福音書とか使徒行伝を見ると、イエス様の死後、使徒たちが記録した三年の公生涯路程だけが記されています。

ですからイエス様が、三年路程でペテロやヤコブなど使徒たちを連れて回る所で、いつも親戚に会うこともでき、すべての事実がみな分かる地域であるにもかかわらず、どうしてヨセフの家庭の一族は、一人もイエス様のあとに従わなかったかというのです。いとこやまたいとこ、母方のいとこたちがいたはずなのに、誰もイエス様がどのような人なのか分からなかったのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

もしある家に長男がいるとすれば、その長男が継子だとしても、彼が家を出て三年間ある志を抱いて新しい仕事をするからといって、多くの人々が関心をもって彼について回るのに、それを見る親戚の人たちが、そこに一人も加われないのかというのです。

反対に悪いことでもするならともかく、多くの人たちから驚くべき推戴を受け、またその背後に現れた奇跡とか、歴史になかった驚くべきことをして回るイエス様であるにもかかわらず、親戚がそれほどまでに厚かましく知らないふりができるでしょうか。イエス様にも友達がいたはずです。手助けをしてくれる兄弟や友達が一人でもいて、家庭を中心として妹やおばなど、真心からイエス様のことを心配しながら泣きわめいたりする人が一人でもいたでしょうか。そのようなことがすべて謎なのです。

 

イエス様を愛せなかったマリヤ

マリヤが本当の意味で、この地上のいかなるサタン世界の母親よりも、イエス様を愛さずして愛の道を訪ねていくようになれば、天理の法度から外れるのです。マリヤは、イエス様のために選ばれた女性です。したがってマリヤは、イエス様の母としてイエス様を懐妊して出産すれば、誰よりもイエス様を愛さなければならないのです。

愛する際には、この世のいかなる母親よりも高い立場で愛さなければならないのです。自分の命を捧げ、自分が引き裂かれて死ぬことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。死と引き換えるようなことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。

ヨセフが曖味であるならば、足でけっ飛ばしてでもイエス様のために大げんかをして、足が折れて頭が切れるようなことがあっても、イエス様を愛することに夢中にならなければならないのです。それにもかかわらず、ヨセフと暮らすのですか。イエス様を愛したという立場で育て、愛する年ごろになれば、妻をめとらせて愛し得る立場まで送り出さなければならないのです。

イエス様は、幼い時から母の愛を受け、「私の母は、天上天下に二人とない母です。たった一人しかいない母です。神様、この母は愛さずにはいられない私の母ですので、あなたの国に私の母として入籍してください」と言うべきなのです。イエス様が決定してこそ、マリヤも天国に入籍できるのです。ところが、入籍できないマリヤをカトリックでは聖母と呼んでいるのです。何が聖母でしょうか。天の国に入籍できなかったのです。

それを考えると、母親はイエス様のことを愛したでしょうか。夫も知らない、誰も知らないという立場でイエス様だけを愛することに夢中にならなければならないのです。世界史にない母として外的な環境がどうであれ、イエス様の前に愛を注ぎ、イエス様のために一生の精識をすべて捧げて息子を愛する母にならなければなりませんでした。一等の母にならなければならなかったのです。マリヤはそうだったでしょうか。それができなかったので、イエス様から「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・4)という言葉を言われても当然なのです。全く当然のことなのです。

イエス様が少し物心のつくぐらいのころ、兄弟たちが生まれて育つ中で、弟たちがイエス様を冷遇したのです。よくよく見ると、イエス様は継子であり、その兄弟たちは実の息子なのです。ですからマリヤとヨセフの間に、イエス様ゆえにいつもトラブルが起きたのです。

非嫡出子として生まれたイエス様は、あきれたのではないでしょうか。彼らとけんかすると、弟たちはいつも誰の所に行くかといえば、お母さんの所に行くのではなく、お父さんの所に行って、お兄さんがどうのこうのと言うので、もとから心が安らかではなかった立場にいたヨセフが、いい言葉を言ったでしょうか。

すべて災いのもとになったのです。ヨセフもそうであり、弟たちもそうであり、その環境というものはあきれたものです。義父のもとに入ればそのようになるのです。ですからイエス様は、父の愛を受けたことがありますか。弟たちの愛を受けたことがありますか。愛を受けていたなら、なぜ家を出たのでしょうか。家を出る必要がないのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど十二弟子が必要でしょうか。自分の親戚を中心として引っ張っていけばよいのです。ところがそのようにできなかったので、ヨセフの一族は滅びていったのです。彼らがイエス様を擁護し、イエス様を中心として進んでいたならば、イスラエルの国が滅びるはずはなく、ユダヤ教が滅びるはずはありません。

Atsuki Imamura