イエス様の生涯と愛 第5話

愛は絶対的なので、愛の関係を結ぶようになれば、全宇宙がその前に主管を受けるようになっています。創造原則がそのようになっているので、サタンが先に占領したものを神様がその原則を無視して、ただで奪ってくることはできないのです。もし神様の愛と一つになっているならば、誰が切るでしょうか。切る者はいないのです。

では悪魔サタンとは、何者でしょうか。神様を中心として見るとき、神様の愛の怨響です。すなわち姦夫なのです。これを許してしまったら、天地がひっくり返ってしまうので、本然の愛を取り戻すためには、許すことができないのです。これを審判せずしては、取り戻せないのです。それゆえ、不倫なる愛の関係を、神様は一番怨讐視するのです。これが拡張したので、神様は安着できないのです。

愛というのは、独りでいるときに生じても、愛は相手から来るという事実を知らなければなりません。愛の根拠地がどこかというと、私ではなく相手なのです。その高貴なる愛を受けようとするなら、頭を下げなければなりません。今日、この世の愛はすべて誤った愛です。このような血統的な問題があるために、神様も六千年間、苦労してこられたことを知らなければなりません。

ローマ人への手紙第八章23節を見ると、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられる(養子となる)こと、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあります。養子になるというのです。神様の前には直系の息子になれないのです。養子というのは血筋が違います。

聖書を見ると、長子は祝福を受けられませんでした。神様は、悪魔サタンの子が初めて生まれたのを見たとき、どれほどあきれたでしょうか。打ち殺したかったことでしょう。アダムとエバも一度にみな、打ち殺したかったことでしょう。しかし、人間を創造されるとき、永遠であられる神様の前に絶対的な相対として創造されたので、破壊してしまえば神様の創造原則から外れることになるのです。創造原則から外れてしまうので、殴ろうとしても殴ることができず、打とうとしても打つことができず、破壊しようにも破壊できない立場に置かれているのです。

それでは、誰ゆえに失敗したのでしょうか。悪魔サタンゆえです。ですから、奪い返してこなければならないのです。奪う際には、悪魔サタンがすべて所有したので、サタンが前から引っ張っていけば、神様は後ろからついていくしかありません。それゆえ神様は、取り戻してくる計画を誰からすべきかというと、サタンが一番目の息子を引っ張っていったので、二番目の息子からしなくてはならないのです。

天使がアダムを主管しました。僕が息子、娘を支配したので、反対に天の側の人が僕を逆に支配しなければならないのです。コリント人への第一の手紙第六章3節を見ると、「あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である」という聖句があります。天使までも審判しなければならないというのです。それほどまでに途方もなく、それほどまでに高貴な人間なのに、今日の人間は、美人とか美しいものがあれば、「天使のように美しい」と言います。天使は比べるものではないのです。それゆえ、サタンよりもましでなければなりません。

神様が本来、主管すべき人は、サタンよりもあとに生まれたという人ではありません。サタンよりも先に生まれたという人を主管しなければなりません。生まれたのは、サタン側が先に生まれたのですが、天の側が先に生んで愛さなければならないのです。ところが、左にいるべき悪魔サタンが右に行き、右にいるべき神様が左に来たのです。これを逆にして正さなければならないのです。正すには、あとに生んではならないので、先に生まれたという立場を探し求めなければならないのです。

その次には、悪魔サタンよりも愛さなければならないのです。悪魔サタン側の息子よりも、天の側の息子のほうを愛さなければならないのです。愛そうとするならば、サタンと血統的な関係をもってはいけません。それで母親の胎内に取り込んで、再び息子が生まれて出てくるようになるとき、サタンは讒訴条件をもてないのです。そのようにして神様は、愛し得る息子を探し求めるための運動をしたのです。

Atsuki Imamura