イエス様の生涯と愛 第6話

抜き取ってしまうべき偽りの血統

サタンとは何でしょうか。神様の姦夫です。神様にとって愛の怨讐である姦夫のことです。

神様は、これを許せば天理の原則から外れるので、許すことができないのです。それゆえ、今日、サタン世界の人間は、百回、千回許すことができても、サタンだけは絶対に許せないのです。それで大審判があるのです。大審判とは、誰を審判するのかというと、人を審判するのではなく、人間に対して主人のように君臨しているサタンです。

祈祷をするとき、神様のことを何と呼びますか。神様を主人と呼びますか、父と呼びますか。父と呼ぶでしょう?本来、生まれるときはみな、神様の直系の息子、娘の血筋を受け継いで、神様の愛の中で永生できるように生まれるべきなのに、エバが怨讐サタンに強奪されることによって、偽りの血統を受けてこの世に生まれたのです。

サタンが本来の父を殺してしまい、母を奪って生んだ子供たちが、今日、堕落した世界の人間なのです。これはいくら腹を立てたとしても、仕方のない厳然たる事実です。ですから、皆さんの血と肉には、すべて神様の怨讐であるサタンの血が流れています。神様の怨讐の血が流れているのです。これを抜き取ってなくさなければならないので、今日、宗教では体を打つようにするのです。体を打つ運動として、「体を打ちなさい!犠牲になりなさい!断食をしなさい!」というのです。今日、この地上に生きる世界の人類はみな、サタンの子供たちなのです。

では、アダムとエバが仮に堕落しなかったら、どうなるのでしょうか。神様の基準に上がって、神様を中心として三位一体になったことでしょう。そうして、ここから生まれた子女たちはみな、天国に行ける息子と娘になるのです。そうなっていたら、祈祷や宗教は何のために必要でしょうか。信仰という名詞は、人間には必要でなかったでしょう。父を信じるのですか。父は救い主だとか、救ってほしいとか、何を祈るというのですか。ただ父の懐にぱっと飛び込み、父に乗っかって座り、ひげを抜いても平気なのに、信じるとは何を信じるのでしょうか。

 

野性のオリーブの木と真のオリーブの木

聖書を見ると、カインとアベルが互いに争いますが、それもアダムが堕落したからです。アダムが堕落することによって、人間は神様もサタンも対し得る中間位置に置かれるようになりました。それゆえ神様は、アダムとエバを中心としては、救いの役事、すなわち復帰ができないのです。なぜでしょうか。彼らは堕落した張本人だからです。

善悪の実とは何でしょうか。善悪の実は、ただの善悪の実でしょうか。聖書は、はっきりとせず曖味です。善悪の実を取って食べてから、なぜいちじくの葉で下半身を隠したのでしょうか。なぜ、こともあろうに下半身を隠したのかというのです。恥ずかしいから隠したのです。それならば、なぜ恥ずかしいのでしょうか。

今日、私たちが堕落した社会の慣習的な観念をもって、「恥ずかしいと思うから恥ずかしいのだろう」と言うとすれば、それは話になりません。恥ずかしいのならば、なぜ下半身だけ恥ずかしいのかというのです。恥ずかしいならば、目は恥ずかしくなく、鼻は恥ずかしくなく、耳は恥ずかしくなく、頭は恥ずかしくなく、手足は恥ずかしくないのでしょうか。

また聖書を見ると、生まれ変わらなければならない(ヨハネ一ニ・3)という聖句があります。生まれ変わらなければならないという言葉は、誤って生まれたことを意味します。人がこの世に生まれるときは、何を通して生まれるのでしょうか。善悪の実を通して生まれるのでしょうか。違います。愛を通して生まれるのです。人は親の愛を通して生まれるのです。

しかし人類始祖は、愛を通して生まれたことは生まれたのですが、神様が愛し得る、万宇宙に誇り、宣布できる喜びの愛を通して生まれなかったのです。神様が非常に悲しまれ、サタンが非常に喜ぶ愛を通して生まれたのです。

Atsuki Imamura