真の父母経 第401話
孝子、忠臣、聖人、聖子の道
真の父母様は、人倫と道徳の根本として忠孝思想を強調された。「孝誠は、家庭で子女が父母によく侍る徳目であり、これを訓練し、世の中の父母たちにまで、その愛の範囲を拡張していかなければならない」と語られた。そして、国家を越えて世界を爱する人が聖人でありさらに世界を越えて神様にまでその愛が到達すれば、聖子になることを強調された。
イエス様は聖子の道を歩まれ、その使命を二千年ぶりに真の父母様が引き継がれ、聖子の生きざまを人類に見せてくださったのである。
真の父母様は、神様を中心に侍り、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、神様から骨の中の骨、肉の中の肉、心情の中の心情であるという証を受けられた。生涯をかけて、言葉で言い尽くせない受難と茨の道を経て救援摂理を締めくくり、聖子の称号を受けられたのである。
11 私たちは、孝子になり、忠臣、烈女にならなければなりません。しかし、孝子は、困難の中から生まれるのです。忠臣も同じように、その国が平安な立場では出てきません。(忠臣は)国と国民が泰平で安らかなところから現れるものではありません。
国の事情が最後の峠にぶつかり、全体が死ぬか生きるかという逆境の場で、自分の生命を懸け、すべての精誠を尽くして国運を変え、国難を解いてあげる責任を果たした人であってこそ、「その国の忠臣である」と言うことができます。困難な時に忠という言葉、困難な時に孝という言葉、困難な時に烈という言葉が歴史に記録されるのです。
12 天の皇族になるためには、孝子、忠臣、聖人、聖子にならなければなりません。その訓練場所が家庭です。完成した家庭が拡大すれば、理想的な王国になります。常に家庭が中心です。したがって、男性と女性、二人の問題です。理想的男性と理想的女性が夫婦になって家庭をつくれば、すべてが完成します。理想家庭が拡大して国家になり、世界になるのです。「私」が家庭で奉仕し父母を敬うことによって孝子になるように、国の王に侍って、ために生きれば愛国者になるのであり、全人類のために生きれば聖人になるのです。
しかし、聖子は違います。聖子は、天上天国の法を全うした方であり、地上天国の法を全うした方です。霊界の法まで全うしたので、誰も讒訴できません。霊界をコントロールすることは問題にもなりません。地上をコントロールすることも問題ありません。どの国もすべて歓迎します。障害がないのです。自由です。そのような人が聖子です。
13 義人とは、国のために僕の僕の立場のような悲惨な立場で命を懸ける人のことを言います。自分が死ぬとしても、国のために死ぬ人が愛国者です。父母のために、僕の僕の位置でも感謝して父母のために生きようとするとき、その人に孝子という名称がつきます。これが、人間世界の道徳の骨子であり核心です。
神様のために、公的により僕になることが、義人となり得る道であり国のために僕よりもっと深刻な僕になることが、忠臣となり得る道であり、父母のために、より僕となった位置で犠牲になっていくことが、孝子となり得る道です。
14 愛国者の中には、数多くの孝子が入ります。孝子になれなかったとしても、愛国者になれば、自動的に孝子の位に上がるのです。忠臣は、偉人にはなれますが、聖人にはなれません。
聖人は、人類のために生きる人です。民族を越えて怨讐の国まで愛そうとした人です。聖人は、国の愛国者を従えることができる人です。聖人の位置に上がるようになれば、愛国者を治めることができるので、愛国者よりも聖人の道理を越えなさいというのです。
統一教会では、さらに一段階上の、聖子の位置について語ります。聖子は、神様の息子として、天の国の法を守るすべを知っています。人間世界の法だけでなく、天の国の宮廷法まで守らなければなりません。天の国の宮廷法を聖人たちは知りません。そのような意味で、聖子の位置に進むようになれば、聖人たちを治めることができるのです。
15 人に絶対に必要なものが、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。自分を主張することはできません。まず、父母を誇らなければなりません。王を誇らなければならず、神様を誇らなければなりません。自分を主張してはいけないというのです。ですから、国にいる、家庭をもったすべての民は、王や大統領の近くに行こうとします。家庭全体が行こうとするのです。そうして、神様のみ前に行こうとします。神様の永遠の愛、絶対的な愛をもとうというのです。神様の愛をもつようになれば、永生が可能です。
神様は縦的なので、家庭が絶対に必要であり、国が絶対に必要であり、世界が絶対に必要です。その次には天の国が必要です。ですから、自分を主張するようになればすべて塞がってしまいます。
父母を愛するのは、「私」が父母の愛の化身になるためであり、国を愛するのは、王の権限を中心として、そこにおいて対等な化身になるためであり、天の国を中心として相対になって一体になろうというのは、天の国の化身、代身存在になるためです。ですから、神様のすべての相対圏は、私から天、世界、家庭にまで連結できるというのです。それが、人間が生きている間に成し遂げて、そこに合わせていかなければならない道です。完成する道なのです。
16 父母を愛する人を孝子と言います。それは、初めも愛であり、過程も愛であり、最後の結論も愛です。それゆえ、家庭の核は孝の道理です。家庭の核の上には、国がなければなりません。国の核は忠臣の道理です。それは国を愛しなさいということです。国の忠臣は、聖人の道理に従わなければなりません。聖人は世界を愛する人です。聖子は神様の息子、娘です。
孝子、忠臣、聖人、聖子、このすべてものが、核は核なのですが、愛を根拠にして核になっているのです。これを、漠然とそのように語ってきたのは、今後、終わりの時代に定着できる安定点は、愛以外にはないことを意味しています。ですから、男性と女性、夫婦同士で愛し合う人であってこそ孝子になります。孝子になって忠臣になるのです。忠臣になって聖人になるのです。聖人になって聖子になります。聖子になってすべての相続権をもつのです。
17 真の聖子、神様の息子、娘は、神様のために生きるのと同じように、神様に属するすべてのもののために生きようとする人です。私は、そのような聖子の道を行く人です。私は、神様も愛していますが、人類も愛しています。ですから、神様が「私の息子よ!」と言うのです。神様が「私の息子よ!」と言うことができる人は、神様のために生きるように、人類のために生きる人だからです。そのような人が神様の息子です。
自分のことを忘れて人類のために生きる神様なので、自分のことを忘れて人類のために生きるのが孝子だというのです。私たちは、孝子の道から忠臣の道、聖子の道を訪ねていきます。そのような内容を中心とした孝子の道理を通して、忠臣の道理を通して、聖子の道理を完成しておけば、その国が地上天国です。これが、そのまま天上天国に移されるのです。そのように移されるようにするためのものが、神様の創造理想でした。
18 誰も、父母様の行く道をまねることはできません。これを山で言えば、ヒマラヤ山脈のエベレストの山頂です。歴史始まって以来、神様の心に通じる孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を経てきたのです。神様の愛を完成させることができる存在は父母様しかいません。神様御自身が感謝の涙を流しながら、「すべてを失っても、探し出したお前は、世の中のあらゆるものの何百倍も価値がある存在である」と言って愛することができてこそ、釘が打ち込まれた神様の心情を解放してさしあげることができます。この上なく途方もない深刻な自分だというのです。
19 どの国の忠臣や烈女も、サタン世界の血統関係を越えることができませんでした。すべて塞がっています。神様の心情的愛、真の愛を中心として、神様と真の父母様が復帰路程で苦労したその道に皆さんが引っ掛かっているというのです。ですから、天地父母の心情を中心として、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を備えることができる「私」にならなければ、伝統を受け継ぐことはできません。
また、孝子の道を教えられた神様であり、その孝子となった人が真の父母だというのです。神様が愛国者として育て、それから聖人の結実体、聖子の結実体として育てたので、このすべてのものが伝統の位置だというのです。
20 良心は父母に優り、師に優り、国や全宇宙の主人に優っています。良心は、神様が願った愛の定着地だからです。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。そこに定着できる良心に、そのように貴く侍って生きる人が義人になり、聖人になり、聖子になるのです。その道を外れては、孝子、忠臣、聖人、聖子の行く道がないというのです。
お父様が苦労してみると、結論は簡単でした。すべて私の中にあったというのです。神様のみ前で恥ずかしさを感じました。これを知って、脱力感を覚えたのです。
その位置を探し出すためにどれほど苦労したかを知れば、そこで涙で向き合わざるを得ない自分を見いださなければなりません。そして、皆さんは、涙で向き合える夫と妻にならなければならず、涙で向き合える民にならなければなりません。ですから、涙なしには復帰の道を行けないことを知らなければなりません。
21 私は、今まで孤独な道を歩んできました。今も孤独です。愛する人に会えなかったからではありません。妻子のいない人でもありません。皆さんのような同役者(一緒に仕事をする人)もいます。しかし、世界を中心として、神様を愛して解怨成就をしておくことができず、孝子と忠臣の道理を果たせなかったので、孤独な道を行かざるを得ません。今も、その道を行くのです。
一生が終わっても、その道が残っているとすれば、どうしますか。それでも、行かなければなりません。皆さんが老いて死ぬまでその道に従っていっても、み旨を成し遂げることができないかもしれませんが、それでも行かなければならないのです。世界のための道なので、永遠に行かなければなりません。神様が永遠なので、神様を中心とした愛の道も途切れることがないのです。
その道は、死んでも行かなければならない道です。霊界は時空を超越した世界なので、千年の期間でも、霊界では一日と同じです。ですから、私たちがこの地で千年かけて成就したことも、一年かけて成就したのと同じだと思って行かなければなりません。その道は、真の愛の道です。
22 天宙の勝利者になろうとすれば、神様を解放しなければなりません。私たちが神様を解放しなければならないのです。ですから、自分の願いを中心として祈ってはいけません。お父様は、自分の志のためには祈りません。神様のみ旨のために祈るのです。
神様が願うのは、「私」自身の救いではありません。神様御自身の解放を願うのです。それでこそ、私自身の救いの道理が始まります。これは根本問題です。
23 お父様は、生涯をみ旨の解放のために生きてきました。メシヤはみ旨の解放のために生まれ、み旨を中心として、生涯を通してみ旨を完成し、解放圏を成し遂げなければなりません。解放圏は、天の国の解放であると同時に、神様の解放を意味します。その次には、堕落した父母によってサタンの血統をもち、囹圄(牢獄・獄舎)の身となっている人類を、このサタンの監獄世界から解放し、さらに、嘆息している万物まですべて解放しなければなりません。今までパンタナールを訪れ、釣りをして山を訪ね回るのは、そのような心情的連帯を、自然と共に結ぶためです。神様を愛する心、人類を愛する心、万物を愛する心で、終着点にこれを結束させ、このすべての蕩減歴史と、すべての経済基盤を造成すべきみ旨を中心として、今まで歩んできました。