御旨と海 第7話
オーシャン・チャーチの設立
1980年10月 1日 モーニング・ガーデン
敬礼の意味
時々皆さんは私達の教会の習慣、例えば敬礼などを不思議に思うでしょう。「どうして我々はこのようにするのだろう」とひとり言を言うかも知れません。それは世界のあらゆる所で、何千年もの間の習慣になっているのだけれども、その詳しい説明を聞けば、なぜ私達も敬礼するのか、もっと容易に理解できるでしょう。まず第一に、それは極めて象徴的な行為なのです。皆さんが四肢を用いて敬礼するということは、皆さんが四位基台の上に立っていることを意味しています。この敬礼も正しい主体、対象関係を表しています。つまり敬礼することにより、皆さんは高い所から低い所へ移動しますが、これは天と地の縦的関係を象徴しているからです。
敬礼するためには、皆さんは緊張せずに自然の姿勢で立ち、一方の足をもう一方の足の少し前に出します。右足は男を象徴し、左足は女を象徴します。右足が左足よりも少し前に出ます。これも男が主体で、女が対象である関係を象徴しています。敬礼することによって体のあらゆる部分が一カ所に近づいて来ます。これは四位基台が、どのようにして一つになるかを表しているのですね。
頭は神様を象徴し、両腕は男と女、そしてその関係を表します。両足は地上を代表します。だから、私達が両腕を上げて頭に触れる時、これは主体と対象が互いに一つになり、さらに神様とも一つとなり、それから下がって来て地上と一つになることを示しています。顔さえも、この全体の関係を象徴しています。両眼は神様を、鼻は男と女(一つだけれども二つの部分からなっている)を、そして口は地上をそれぞれ象徴しています。両眼は物を見ます。これは天を表しています。胴体つまり体は、宇宙を象徴しています。
言い換えると、宇宙は四位関係の基台の上に立っていることになります。このようにして神様、ならびに神様を代表する人々に尊敬の意を示し、挨拶をすることは大変意に適っています。韓国にはこの習慣が何千年もの間続いています。しかし、私達がこれを行うのは韓国の習慣だからという理由のためではなく、それが原理に一致しているからなのです。このように子供達が毎日、毎朝、両親に挨拶します。
皆さんが子供達を、特に母胎内にいる時の子供達を見れば分かることですが、彼らは自分達の指を握り締め、拳をつくっています。どうしてでしょうか。親指は神様を、そして他の指はそれを取り巻く四位基台を象徴します。もし皆さんがそれがそれを見て、体がどれほどまでに宇宙のあらゆるものを反映しているかに気がつくなら、世界各国でなされているあらゆる挨拶の中で、この挨拶が最も包括的で、最も意味深いものでということが分かるでしょう。我々が神様の前で、またお互いの前で一体何者であるかといことを、とても意味深いやり方で私達に思い出させてくれるので、この挨拶が敬意を表す最も正しいやり方です。皆さんは自分達の教会とか、皆さんが働いているミッションの場所とかで、日曜日の敬礼式をちゃんとやっていますか。毎週、毎月、そして毎年行うということ、これも大変重要なことですね。その場所に、男とその妻(祝福されていれば)は、東の方向に敬礼すべきですね。それは太陽が昇る方向だし、さらに神様を象徴しているからですね。敬礼できる方向としては、もう一つ北があります。それは最も高い真の北極がその方向にあるからです。さらに歴史を通して人類の道しるべとなっている北極星も北の空にあります。
歴史の最初の種子
歴史には数多くの文明が存在しました。北の文明は現在では共産主義社会です。分かりますか。現在共産主義は多くの国に広がって、またまさに世界を征服せんとしています。それが共産主義者達のもくろみであり、かつ彼らはそれをやる実力を持っています。これはサタンの最後の仕事なんですね。しかし、春が来れば、最も遠い北極ですら氷解しなければなりません。統一主義とは何でしょう。それは新しい文明の始まりです。簡単に説明しましょう。古代文明は、エジプトのような熱帯地方にありました。古代文明は暑い所から始まりました。だから「夏」の文明と呼ぶことができます。今日、ヨーロッパのように、それらの時代から発生した温帯から寒帯にかけての文明があります。それらは「秋」の文明と呼ぶことができます。秋になれば葉が木から落ち始めます。同様に、これらの文明が過去の偉大さにもかかわらず、衰退しつつあるのを私達は知っています。木はその葉を失い、裸の枝だけが残り、その他はすべて落ちてしまっています。その後、北から冷たい冬の文明、共産主義が広がり、秋の文明がそれに吸収されるでしょう。以前の状態のままでいることはできないのです。冷たいのは無慈悲です。共産主義は無慈悲です。それが一旦介入すると決めたら、とことんまで介入します。その前に立ちふさがるものは何でも、完全に排除してしまいます。この点から見て、私達にはまだ「春」の文明は訪れていないと確信を持って言うこうができます。人類は元来、春から始まるはずであったということを皆さんは知るべきです。私達は歴史を振り返ってみて、文明に春は一度もなかったことを知っています。だから恐らく、現在が真の愛の始まりであり、真の愛の結実が初めて隆盛を極める時でしょう。
もし我々が春から出発して夏、秋、冬へと発展して行ったならば、その実は最初の種子から生長したことでしょう。しかし最初の種は植えられなかったので、冬が来たら何も残りませんでした。もし種が植えられていれば、それは冬の間深い所へ深い所へと潜り、次の春にはさらに大きくなって出て来ます。しかし最初の種がなければ、その実は死んでしまい、次の春には何も残らなくなってしまいます。
もし冬を生き抜くつもりであれば、厳しい寒さに生き残るつもりならば、皆さんは種をもっていなければなりません。堕落人間の歴史は最初の種子から始まりませんでした。神様は新しい歴史を始め、今度はそこに自らの種子を植えなければなりません。ではその種子はどういう種子であるべきですか。それは最も強靭で、堅固でなければなりません。もし皆さんがそのような者であれば、最も厳しい冬が来る前に植えられたとしても、その冷たさは皆さんを破壊することはないでしょう。皆さんはその冷たさによって割られてしまうことなく、春が来たら、皆さんは花を咲かせ始めるでしょう。