イエス様の生涯と愛 第77話
聖霊を恋い慕うべき今日
今、私たちが恋い慕うべき一つのことが残されているのですが、それは何でしょうか。私たちは、地のために代わりに仕事をしている聖霊を恋い慕わなければなりません。これを知らなければなりません。今まで数多くの人々がイエス様を二千年間霊的に恋い慕ってきましたが、今は聖霊も恋い慕わなければならないのです。そうしなければならない聖徒であり、私たち人類であるということを考えなければなりません。このように聖霊を恋い慕うべき時代が来たのであり、新婦の体を完成すべき時が来たのです。
聖霊は新婦の神なので、新婦の姿を備え、新婦の形体を成して、私たちは恋い慕うことができなければなりません。このようになれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私たちがこの地を中心として探し求めていくのです。
心から霊界を恋い慕った私たちは、今や私たち自身に役事なさる聖霊を恋い慕わなければなりません。それで私たちは、霊的な象徴であるイエス様を恋い慕い、肉的な象徴である聖霊を恋い慕い、私たち一個体において霊的なイエス様を恋い慕う心と肉的な聖霊を恋い慕う体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が、私の一つの心と体で合わさり得るのです。そうなることによって、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができ、私はその真ん中でイエス様と聖霊のみ旨に代わって万民を代表して現れ得るのです。これを知らなければなりません。
それならば、今やこの地上に来るべき主は、どのようなみ旨をもって来られるのでしょうか。イエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体につくり上げなければなりません。生きた肉体をもっている皆さんが、霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊を見習い、霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神様の全体創造の理念が、皆さん一人において完結されないのです。このような一つの中心の使命が、イエス様と聖霊の使命なのです。この一つの中心をつくるために、イエス・キリストは再臨されるのです。
二、イエス様復活後のキリスト教
キリスト教の使命
イエス様を中心として、その十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗したその時代ごとに蕩減できなかったすべての男性たちの失敗が蕩減されるのです。
それゆえイエス様は、彼らと完全に一つになって、歴史的な失敗を収拾できる実体圏を横的につくらなければなりません。完全に金城鉄壁のような垣根をつくって、サタンが攻撃しようにも攻撃できない一人の男性としての勝利的基盤を決定づけなければならないのです。その垣根の使命を果たすべき人が、十二弟子であり、七十門徒なのです。
このような土台、すなわちこのような背景の上に強固に立ち、女性を求めて母の基準をつくらなければならないのです。そのためには、歴史路程で戦ってきたように一大決戦を通過しなければならなかったのです。そうせざるを得ない内的な事情がイエス様にはあったという事実を、その時代の十二弟子や七十門徒は知らなかったのです。
ですからイエス様は、このような環境の土台を一度ももてませんでした。そのようにできる一人の相手も見つけられず、そのような内情を通告させ得る一人の弟子も見つけられないまま三十余年の生涯を送る中で、結局、十字架に釘付けにされて亡くなったのです。
そのようにして十字架で亡くなったイエス様であるがゆえに、恨があるとするならば誰よりも多い恨があるでしょう。神様は四千年間歴史をつづってきながら苦労した土台の上にイエス様を送られて、その時を迎えさせたにもかかわらず、神様が願われたすべての内容が根本的に破綻してしまいました。またイエス様は、神様が男性の歴史としてつづってきた四千年の歴史に、一つの勝利的な基盤を立てるために来たにもかかわらず、それを立てることができずに逝かなければなりませんでした。そのようなイエス様だったので、その事情はどれほど哀れなものだったのか知らなければなりません。
イエス様は自分一人が死ぬことは気にもかけませんでした。そのようなことよりも、自分一人が死ぬことによって、四千年という長い歳月の間、男性を通して役事してきた神様の摂理のすべてが水泡に帰すという事実を悲しまれたのです。自分が死ぬその悲しみよりも、神様の摂理が失敗に帰す悲しみのほうが大きいことを感じて、内情的に深く悲しまれたイエス様でした。そのようなイエス様の心情を知らなければなりません。
しかしイエス様は、「自分は死んだとしても、歴史的なすべての土台をもう一度収拾するのだ」という信念と決意と覚悟のもとで、十字架の道を堂々と突破したので、神様の心情と一致点をつくることができ、霊的に弟子たちを再び収拾することができたのです。
これによって第二の垣根をつくり、今日、男性を中心としたキリスト教の歴史を再編成することができたという事実を知らなければなりません。このようにして霊的な基準を中心として、今まで二千年間数多くの殉教の歴史を経ながら発展させてきたのが、キリスト教の歴史なのです。