イエス様の生涯と愛 第78話
パウロを中心とした新たな神様の摂理
パウロは復活されたイエス様に出会い、天の使命を受けました。そうして裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒の立場で異邦の国であるローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えました。
パウロが十二弟子の殉教に代わり、洗礼ヨハネの死に代わって主を探し出したので、地上においては摂理的な軌道が異邦の国に移されました。こうしてパウロは、ローマ帝国に入り、独りで追われるようになります。宗教的に歓迎されない立場に置かれるようになったのです。
しかしパウロは、イエス様が定められた摂理のみ旨一つを抱いて人類の十字架であるゴルゴタの道を行かれたように、ローマのいかなる迫害の矢にも屈せずに貫いて進みました。天のみ旨のためには、死も意に介さずに進んでいく姿がイエス様の姿を彷彿させたのです。
そうしてパウロを中心としてキリスト教は動き、一つの家庭型を経て、部族型、民族、国家、世界型と経てきました。イエス様がゴルゴタの道を行ったように、パウロは天の使命を担い、十二弟子の代わりにサタン世界に対して死のゴルゴタの道を自ら進んで乗り出したのです。そうして、ローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたということを知らなければなりません。
また個人的なパウロの犠牲が、その時の部族、または十二弟子のような人たち、イスラエルのような群れを起こすことになりました。そうして個人から全体が一つに団結して、死の立場を越えて戦ったので、ローマの国を奪うことができたのです。そうして約四世紀を過ごす間、キリスト教は繁栄しました。中世封建社会時代においてローマ法王庁を中心として、キリスト教は全盛時代を遂げるようになったのです。そうして全世界をキリスト教徒が支配してきたのです。
これはイエス様が血を流す十字架上において、強盗が友となったように、世界的に打たれるゴルゴタの路程を経ていくその時において、裏切ったユダヤ民族の友ではない一つの群れ、一つの国家が現れるというのです。そのような群れ、そのような国家が現れなければならないということは、歴史的な摂理観に照らして見れば妥当なことなのです。
キリスト教を立てた神様のみ旨
今までの歴史過程について見ると、東洋は精神文明を中心とした道を求めてきたのであり、西洋は物質文明を中心とした道を求めてきました。しかし歴史は、このように相いれない両面の方向に発展していくばかりではありません。神様は西欧文明をアジアの東洋文明に接するようにされ、新しい宗教理念に連結できるその時を求めてこられるのです。神様がいるならば、間違いなくそのようになさるでしょう。
キリスト教思想は、万民を中心として自分たち自らを鼓舞させながら、今まで発展してきたのです。今まで悪なるサタン世界において、キリスト教の歴史がつくられてきた過程を見ると、キリスト教は烈士たちが血を流した殉教の因縁を経ながら土台を固めてきたのです。社会の前で批判や非難を受けながらも反抗もせず、死の代価を払いながら発展してきたのです。もちろんキリスト教以外の宗教もありますが、歴史の全体的な流れの中で、そのような宗教というのはキリスト教だけであるという事実を私たちは知っています。
このように追われ迫害を受け蔑視されたキリスト教が、今日では名実共に世界的な宗教として民主世界を動かす思想的な後ろ盾になったという事実を考えてみたときに、これはキリスト教それ自体の力だけで成し遂げられたのではありません。死の峠を踏み越えることができたその力の母体は、キリスト教自体の力というよりも、背後にいらっしゃる神様の力なのです。その神様の力によって、キリスト教が世界的に発展してきたのです。それならばそのキリスト教は、今後どうなるのでしょうか。それが問題なのです。
神様がキリスト教を立てたとするならば、その目的は新しい国を探し出すためであり、新しい世界を形成するためでしょう。言い換えれば、神様は今までこの地上になかった善を代弁することができ、善の立場を擁護することができ、善の環境を守ってあげることができ、善の主権を行使できる善の祖国ができることを願ったのであり、勝利の時が成就されることを願ったのです。
このような事実を私たちは否定できません。それゆえキリスト教思想は、必ず終末の時代が来るということを予告しているのです。終末になればキリスト教の全盛時代になり、新たな世界をつくると言っています。そしてその時は、悪の勢力を中心としてキリスト教を反対した国は滅びると、端的に結論づけているのです。