イエス様の生涯と愛 第76話

聖霊の苦労に対する人間の責任

私たちは今まで、イエス・キリストを迎えるために自分だけが苦労してきたものと思っていましたが、自分の背後で自分以上に苦労された聖霊がいることを知らなければなりません。

イエス様が願われることは、人間の苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、この聖霊を立て、イエス・キリストの栄光に代わって人間を糾合しようとされるのです。そのような一日を迎えられなければ、イエス様はこの地に再び来て万民の主人公に立つことができないのです。

それゆえ私たちが悪に対して立ち上がるようになるとき、私たちが犯した罪によって聖霊が代わりに地で苦労されるようになったのであり、イエス様が十字架にかかられるようになったということを知らなければなりません。また私たちは、天地のどこに行っても天の怨恨から抜け出すすべのない罪人であることを知らなければなりません。

この罪を悟って今や私たちは、心と体をすべて捧げなければなりません。そうしてまずは聖霊の苦労に頼り、イエス・キリストの苦労の度数を満たすことによって、その苦労の荷を下ろしてあげなければなりません。このように私によって聖霊の苦労が終わり、イエス様の苦労が終わり、神様の苦労が終わってこそ、私たちのために罪を引き受けて苦労された天の復帰摂理のみ旨が終結するのです。そして私たち自体は、そのとき初めて一人の主人公を得るようになるのです。これを皆さんは知らなければなりません。

イエス様は、「人の子」としてこの地に来られて逝きました。イエス様は実体の体をもつ一人の人間として、この地に来られて逝きました。皆さんが霊界を通してみれば、イエス様は私たちと一問一答できる体をもっておられるので、皆さんの霊眼が開かれれば、私たちのために亡くなったイエス様を慰労して、感謝を捧げることができますが、聖霊に対してはそのようなことができないのです。なぜならば聖霊は体をもっていないからです。

イエス様は実体をもった天の主人公として、また被造世界の中心としてこの地に来られました。ところが聖霊は、いまだに体をもてずにいるので、聖霊の苦労に対して直接慰労してあげることができないのです。それならば、新郎であられる天上のイエス様の前に新婦となれる地上の実体聖霊は、いつこの地に現れるのでしょうか。

私たちが犯した罪は、イエス・キリストだけ死の峠を越えさせたのではなく、聖霊までもそのような苦労の峠を越えさせたのです。ところが私自体を通して、その苦労の怨恨を解怨するようになれば、その喜びと栄光をイエス様にはお返しできますが、聖霊にはお返しできないのです。

私たちが罪を委ねれば、まずは聖霊が私たちの罪を引き受けられます。そうしたのちにイエス・キリストが引き受けられ、そのあと神様から清算を受けるのです。今日、私たちはこれをよく知らずにいます。このようなこと、このような使命を知る聖徒たちが現れるならば、聖霊の感動の役事は、その人たちを通して全人類に現れることでしょう。

今や私たちは、どのようにすべきでしょうか。私たちはイエス様と同じ立場の新郎格主人公と、聖霊と同じ立場の新婦格主人公を見つけなければなりません。そうして贖罪の恩赦を受けなければなりません。そして聖霊とイエス様をつかんで、「聖霊と聖子(イエス・キリスト)、そして神様よ!祝福してくださいませ」と言えなければなりません。そのような皆さんとならなければ、イエス・キリストの二千年の苦労と聖霊の二千年の苦労は、この地上で完結させることができないのです。

イエス様は、どうして「世の罪」を担当されたのでしょうか。それは私たちのために、私たちをして自由を所有できるようにするためでした。そして主人を求めさせたのは、人間に本然の姿を備えさせ、サタンの支配を受けた立場からサタンを支配できる立場へと移してあげるためでした。

Atsuki Imamura