イエス様の生涯と愛 第40話

ユダヤ民族の不信

イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかって亡くなり、復活されたのちに昇天されたので、再び来なければならない摂理的運命に置かれているのです。

長い間、神様の摂理のみ旨に従ってきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は、神様のみ旨を成し遂げ、勝利の基台を準備すべき使命がありました。これが彼らを選んだ神様の願いであり、また彼ら自身の希望でした。

このようなみ旨がかなえられるその時を願って、神様は御自身が信じることができ、創造理想を実現する全体の任務を遂行し得る一人息子であるイエス様を送りました。したがって神様は、イエス様を人間の前に主人として現れるようにされ、イスラエルを通して祝福を成し遂げなければならず、また歴史的な神様の救いの摂理のみ旨を終結させなければならなかったのです。

ところがそのようなイエス様が、どうしてこの地で摂理のみ旨を成就できず、神様の栄光を謳える理想の園を成し遂げられずに逝ったのでしょうか。これが今日、私たちに悲しみを呼び起こさせる内容であらざるを得ません。

イエス様がこの地に来られて亡くなる時までの路程は、今日この地上に生きている人間たちの行く、そのような生涯の路程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経て逝かれました。またイエス様は、神様のみ旨と人間の理想を一身に携えて、一世代圏、一時間圏内の一存在として現れた方です。

けれども、そのようなイエス様の価値を、天が見るのと同じ価値として認める人がこの地には一人もいませんでした。それだけでなく人間は、全人類に神様の愛を連結してくれる愛の中心存在として、イエス様に侍ることができませんでした。

それゆえイエス様は、言うに言えない悲惨な生活をされたのです。誰か一人でも友人として立たせて、自分の悲しみを吐露することができなかったイエス様でした。このようにイエス様は、どこの誰よりも哀れに生きて逝かれたことを、今日知らなければならないのです。

神様のみ旨を成就させ、神様の栄光のためにイエス様が来られたことがイスラエル民族の喜びとなり、ユダヤ教団と世界人類の喜びとならなければなりませんでした。また神様のひとり子であるその方は、全人類の主人公として現れなければなりませんでした。ところが、どうしてそのイエス様は、飢えと悲しみを受ける哀れな生活をされたのでしょうか。

時代は変わり、歴史は経過しても、イエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独さを体恤し、彼の哀れさを感じ得る人にならなければなりません。もし皆さんが天地に代わってサタンと戦い勝利することによって、神様に栄光をお返しできる息子、娘になることができないならば、悲しみと孤独さによって残されたイエス様の怨恨を解いてさしあげるすべがないのです。

イエス様の願いは、自分自身の欲望を満たすことではなく、自分自体を犠牲にしてでも神様の創造理想を実現してさしあげることでした。被造世界の中心存在に立てられた人間が堕落したので、神様は創造理想を実現するために、四千年間復帰摂理をしてこられたのであり、イエス様は堕落した人間始祖の誤りに責任を負って、そのような神様のみ旨を自分の理念、自分の目標として現れた方でした。

ところがイスラエル民族は、そのようなイエス様を知りませんでした。それだけではありません。ユダヤ民族は、イエス様の一身が歴史的な願いの代わりであると同時に、当時、神様の全体的なみ旨の代わりである方だったことも知らなかったのです。

イエス様は孤高な一個人ですが、それ自体は歴史に代わることができ、現実に代わると同時に、天倫のみ旨に代わり得る永遠なる神様の理想をもった方でした。けれども、神様のみ旨に従ってきたイスラエル民族とユダヤ教団は、イエス様がそのような方であることを知り得ませんでした。それゆえ彼らは、イエス様の行かれる道を協助するどころか、公然と妨害し、迫害したのです。

Atsuki Imamura