イエス様の生涯と愛 第38話

第四章 イエス様の苦難と試練

ー、ユダヤ民族の不信

 

イエス様の涙と祈祷

神様は四千年の間、悲しみながらもその悲しみを表せなかったのですが、イエス様は、実体的に涙を流して生きられました。聖書には三、四箇所しか出てきませんが、実際イエス様が涙を流された隠された事実は限りなく多いのです。

神様が数千年の間、摂理歴史を通して愛してこられたユダヤの民を見つめると、いかなる瞬間も涙を流さなかったことがなかったのです。イエス様は、神様に祈るたびに涙を流されました。困難で孤独な出来事にぶつかるたびにイエス様は、父だけが分かってくださる中で悲しまれたのです。けれどもイエス様は、このような悲しみを弟子たちに話せませんでした。そのようなイエス様の事情を知らなければなりません。イエス様が、オリーブ山に登って夜を明かして祈られたのは、一度や二度ではありません。ゲッセマネの園においてだけ祈られたのではありません。

困難な道を歩まれながらも、悲しみの事情を申し上げられるのは天しかなかったのです。だからといって、その悲しみを天に任せようとされたのではありません。むしろ、その悲しみを自分が引き受け、背負わせてくださるように祈ったのです。「父よ!私を御覧になって悲しまれるその悲しみを私が引き受けますので、父よ!私を御覧になって慰めを受けてください!父の悲しみを私が耐えますので、悲しまないでください」と訴えたのです。

そして「四千年の御苦労に私が責任を負いますので、父よ、心配なさらないでください。私がいますので、父の希望が残っていますので心配なさらないでください」という祈祷ばかりをしたのです。

 

開拓者としての決心

イエス様が三十年の準備期間に開拓者として抱いた決心とは、何だったのでしょうか。それは、「死の峠があっても私は行く。迫害の道があっても私は行く。滅びることがあっても私は行く」という決心でした。

そうしてイエス様は、この準備期間に、自分の生活的な環境を清算し、自分のための生涯の理念を清算し、民族的なすべての因縁を清算し、旧約と法度を重視するユダヤ教団の形式までもみな清算するという、一生の覚悟をしたのです。

天国を開拓し、全世界の人類の心を開拓すべきイエス様は、寝ても覚めてもその生活において、神様の理念の境地に、一日に何度も往来しない日がありませんでした。そのようなイエス様であったことを知らなければなりません。

三十年の準備期間における内的な悲しみを、この地上の万民は知りませんでしたが、ただ神様だけはイエス様の味方になってくださいました。イエス様が木に鉋がけをする場でも、手斧を持って木を小さく切る場でも、鋸を持って木を切る場でも、御飯を食べて休む場にいても、彼の心は神様の心情と事情を体恤することを願い、神様の願いだった天国の建設を、一瞬でも忘れたことがなかったという事実を知らなければなりません。

それだけではなく、四千年の歴史を無にすることがあり、選ばれたイスラエルは無にしたとしても、このような価値は無にすることができず、選ばれた教団は無にしたとしても、これは無にすることができず、両親や親戚、いかなるものもすべて無にすることができたとしても、これだけは無にできないと、心の中に、そして骨と肉にしみるように感じたのです。そうして徹頭徹尾、天情を中心として一日を見つめながら準備してきたイエス様の生涯こそ、悲壮な生活の連続であったことを、皆さんは知らなければなりません。

一日、一時を探し求めて準備したイエス様の心情とその姿を、皆さん、もう一度描いてみてください。彼の着ている物はみすぼらしく、彼の姿は悲しく見えたとしても、彼の視線だけは、地のいかなる征服者や開拓者にも負けないものでした。

天の心情と通じる彼の視線であり、宇宙を貫いても余りある途方もない視線をもっていたという事実を、私たちは考えざるを得ません。したがって、そのような心情と視線をもって見つめる彼は、試練を受ける不憫な人の姿になるまいとしてもならざるを得ず、悲しみを抱いた姿になるまいとしてもならざるを得なかったのです。

このような事実を回顧してみると、イエス様は、歴史路程を通して苦労してこられた神様をつかむ心情が強くなれば強くなるほど、不信のイスラエル民族になるのではないかと心配する気持ちが大きくなり、不信の使徒、不信の弟子たちになるのではないかと限りなく心配したという事実が分かります。イエス様は、このような心を抱き、黙々と三十年の準備期間を過ごしました。

天の側に立って燃え上がるイエス様の心情がいくら強くなっても、それは自分の一身のためのものではありませんでした。天の願いに燃え上がり、世界を見つめる視線がいくら深刻であっても、それは自分の一身の欲望のためのものではなかったことを、私たちは知らなければなりません。

ただイスラエル民族のために生きようとしたのであり、全世界のために生きようとしたことを知らなければなりません。それでイエス様は、限りなく悲しい涙を流したのです。そのような準備期間に、イエス様は十字架の峠を一度だけ覚悟したのではありません。誰かが死ぬといううわさがあれば、彼を回生させるべき人は正に自分であると、感じることが何百回もあったのです。

誰かが無念にも迫害を受け、無念にも追われ、不憫な立場でひどい目に遭っている人がいれば、その事情を自分の事情として考えました。当時、起こっていた社会の凄惨な現象を、自分の一身の実路程の上に展開されている実証的な供え物のように考えながら見つめた、イエス様の心情を知らなければなりません。

Atsuki Imamura