イエス様の生涯と愛 第63話

神様に対するイエス様の愛・忠誠・忍耐

イエス様はいくら血を流す立場、悲しみと苦痛に受ける立場、恐怖にとらわれる立場に置かれていたとしても、その中心だけは変わりませんでした。もし天の理念を引き継いで、地上に一つの不変の道を開拓する全体的な使命を担当すべきイエス様が、そのような環境で中心が変わったとしたなら、勝利的な天倫の役事は始まらなかったことでしょう。

イエス様は困難な環境、希望が途絶えた立場、サタンから讒訴される立場でも、そのすべてに打ち勝って乗り越え、勝利的な天倫の道を開拓していったのです。

イエス様は、このような道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そしていかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならないと主張し、罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に、神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教でいう御霊の九つの実(ガラテヤ五・22、23 参照)の根本です。愛の生活をするようになれば喜びと平和が生まれ、忍耐(寛容)を通しては慈愛と善意が生まれ、忠誠(忠実)の生活をすれば柔和と謙遜(自制)が生まれるのです。

イエス様は堕落圏内にいる人間のすべての悪の要素を除去するために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成し得る実践的な理念なのですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また忍耐と忠誠心がありますか。イエス様は神様の心情に代わって現れた愛の化身体であり、悲しいゴルゴタの道でも万民の苦痛を心配された忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。

それならば、このようなイエス様の愛、忍耐心、忠誠心の起源はどこにあるのでしょうか。これらは、イエス様自身が起源ではありません。ただイエス様は、その神様の愛を人間につなげる仲保の役割をされるのです。無知な人間を救うために来られたイエス様は、神様の愛の化身であり、神的な価値の実体でした。

それならばイエス様は、どのようにして歴史上になかった神様の愛を表すことができたのでしょうか。彼は神様とみ旨のために、そのすべての困難を克服でき、自分の生命までも捨てることができました。ですから、イエス様に神様の愛が臨むことができたのであり、歴史上初めて神様の愛を直接再現することができたのです。

イエス様はこの地に来られて、神様の愛を探し求めるとき、論理的な面を前面に出したのではありません。イエス様は、愛に対する定義や愛に対する論理を語りませんでしたが、愛の実践的な面において歴史を代表したのです。イエス様は、自分が感じることができず、行動できないことは語られませんでした。イエス様は、実践的な行動を通してのみ、神様と永遠なる関係を結べることを知っていたからです。

では、このようなイエス様の実践的な愛は、どこから生まれたのでしょうか。イエス様自身から生まれたのではありません。神様の内的心情を探ることができたので、イエス様はそのような内的心的基準を立てることができたのです。これを私たちはよく知りませんでした。

では神様の愛とは、どのようなものなのでしょうか。今日この地上の人は、千万回裏切り、変わるかもしれませんが、神様は、そのようなことはできないのです。神様の愛は永遠不変なのです。このような神様の愛の心情を人は知らなかったので、人間は互いに裏切り合って不信してきたのです。

では神様の忍耐心は、どこから生まれたのでしょうか。神様が闘争の歴史を経てこられたのは、愛を成すためでした。また悪に対して限りなく耐えてこられたのは、善の生活理念を立てるためでした。すなわち、一人の人間を立てるための変わることのない天理、法度の基準を立てて六千年を忍んでこられたのです。

神様はこのように真のみ旨を成し遂げるために、御自身と同じ人、全体の価値に代わり得る人を探すために、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に、先に神様が人間に対して忠誠を尽くし、限りなく忍耐してこられたのです。

したがって天倫を中心として運行なさる神様と、そのみ旨を成就するために限りなく人間に対して忠誠を尽くしてきたその事情を体恤しなければならず、このみ旨を立てるために限りなく犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために限りなく御自身を超越なさった神様の心情、限りなく与えようとなさる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。また自分のいかなる主義、主張、自分のいかなる観念をもってしても、神様の前に立つことができないことを知らなければなりません。

無限の愛を与えるために、四千年間忍んで神様の愛を受ける者は誰だったのでしょうか。そのような者は、イエス様しかいませんでした。これを知っているイエス様は、孤独なときもその愛を感じながら、神様の前に感謝することができたのです。

そして四千年間悲しまれ、四千年間闘いながら耐えてこられた神様であることを知って、その忍耐心の価値の結果を表すことによって、サタンの前に誇り得る一人の人格者は、どこにいたのでしょうか。やはりイエス様お一人しかいませんでした。そうして自分を通して人間の行くべき道を導くことを願われる神様の願いを担い、神様に代わって忍耐し、独り天倫の道を行かなければならなかったイエス様は、悲嘆に暮れたのです。これを知らなければなりません。

Atsuki Imamura