イエス様の生涯と愛 第62話
イエス様が立てられた愛の基準
イエス様は宇宙的な人生の価値を実現するために、何を打ち出したのでしょうか。イエス様は愛を打ち出しました。すなわち、宇宙的な人生の価値を天地において完結させるために新しい福音を伝えましたが、その福音の中心が正に愛だったのです。
個人が自分の一身の人生を永遠なる価値の基準に結びつけ得る最も重要なものとは何かといえば、イエス様が語られたように、人のために自分の生命を捧げられる愛なのです(ヨハネ一五・13参照)。実際にイエス様は、自分自身のための愛ではなく、人を自分以上に愛することに人生の価値基準を立てられたのです。
このように天的な全体の人生の価値を代表して現れたイエス様は、人間に自分の個体の救いのためには、人のために命を捨てることのできる愛を所有しなければならないと教えられたのです。自分のための愛よりも同僚のための愛、同僚のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神様と霊界にいる千万の聖徒たちのためにも生きる愛をもって現れた方が、イエス・キリストであることをはっきりと知らなければなりません。
イエス様は自分の人生の価値を求めるための個体的な観念、あるいは個体的な愛をもって生きられた方ではありません。イエス様は友を愛されるときも、単にその友人関係だけで愛されたのではありません。その裏には世界の代わりに愛するという観念をもち、また神様の代わりに愛するという気持ちで愛されたのです。
このようにイエス様の愛は、一対一の関係ではありませんでした。イエス様がいかなる個人を愛したとしても、そこには神様の愛が内包されており、宇宙的な愛が内包されており、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験する皆さんにならなければなりません。そのような皆さんになってこそ、イエス様の人生の価値を正しく知ることができるのです。
それならばイエス様は、自分の人生の標準をどの基準まで立てたのでしょうか。世界のために自分が存在するという基準を立てたのです。イエス様は自分を犠牲にしながら、友を愛するときにも、その裏には世界のために愛するという観念をもっていらっしゃったのです。
イエス様が十字架上で世界的な救いの愛の基準を立てることができたのは、個人のために死ねると同時に、全体のためにも死ねる犠牲と愛の心があったからです。このようにイエス・キリストが、愛と生命と人格の主人公であったことを知らなければなりません。単にそれだけではありませんでした。
イエス様はそのとき天に向かって、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈られたのです。このように死の峠を越えて、父のみ意のままにのみ生きることを願われたイエス様であったので、神様の愛を人間に紹介することができたのです。このようにイエス様の路程には、驚くべき愛が内包されていることを私たちは知らなければなりません。
また宇宙的な生命を復帰する使命をもって来られたイエス・キリストが、人生の価値を求めるために打ち出したものとは何だったのでしょうか。それもやはり愛でした。その愛は、人間個々人のためのものではなく、世界のためであると同時に、神様のためであり、永遠なる世界、すなわち霊界にいる霊人たちのためにも生きる愛だったのです。
それならば、今や全体復帰の人生を成し遂げなければならない私たちが、一日一日の生活で神様の愛に代わるイエス様の人生の価値を実現するためには、いかなることにぶつかってもその日、その時間に感じる感情だけで対してはいけません。宇宙的な全体の性稟に代わったイエス・キリストの人格の代わりをしようという覚悟と決心で、すべてのことに対さなければならないのです。そのような一日一日の生活を経てこそ、世界的な人生を完結でき、永遠なる人生と関係を結べるのです。
言い換えれば皆さんの一日一日の生活というのは、皆さん自体だけに及ぶ瞬間的な生命の価値をもっているとするならば、永遠とは関係を結べないのです。それゆえ、永遠無窮なる神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければならないのです。そのような時に、永遠なる神様が皆さんと共にあるようになるのです。
そしてイエス・キリストが、一生の間、毎日、神様と関係を結びながら生きたので、イエス様は亡くなったとしても、イエス様を通して成そうとされた神様のみ旨はずっと成し遂げられてきたのです。