イエス様の生涯と愛 第61話

二、十字架の贖罪を中心としたイエス様の心情と事情

 

父を慰められたイエス様

イエス様は宇宙的な使命をもってこの地に来られましたが、一生の間、苦難を受けられました。しかし、その悲しみのために祈るのではなく、かえって心を痛めて心配なさる父を慰められました。そうしながら地を眺めて、人間の無知を容認してあげるために苦しまれたイエス様だったのです。

しかしイエス様の生涯は、三十余年の涙の生涯にだけ終わったわけではありませんでした。彼は神様の代わりに苦労をしてきたので、死のうが生きようが父のみ旨だけを栄光となるようにしてあげようという思いをもって生きました。イエス様は神様がたとえ分かってくださらなくても、地上の人間が分かってくれなくても、そのようなことにはかかわりなく、み旨のために生きられたのです。

み旨を完全に成し遂げようとして来られたイエス様でしたが、十字架に亡くなることになったからといって、腐心や失望はしなかったイエス様でした。死の場まで行っても、イエス様は自分について弁明しませんでした。ピラトの法廷を通過し、ゴルゴタの山頂を経て十字架に釘付けにされて亡くなる立場まで行きながらも、イエス様は弁明しなかったのです。弁明しなかった主人公でした。

人間があのように反対するのも、自分の責任であると感じられたイエス様でした。イエス・キリストを信じている私たちは、誕生されたイエス様から、生きられたイエス様を経て、逝かれたイエス様の友とならなければなりません。

イエス様は何と友になったのかというと、生と友にならず、死と友になられた方でした。歴史過程で数多くの人々が死の道を行きましたが、万民の死に代わって死の友になり、万民に代わって亡くなった方は、イエス様だけだったのです。

それゆえキリスト教というのは死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に勝つものです。またイエス様の活動は、自己の一身を破壊させることでした。その一方で恨むことなく愛するイエス様の行路だったことを、皆さんは認識しなければなりません。

イエス様は死の友だったので、死を早めるときにも死を意に介しませんでした。怨讐のために死ねる余裕の生涯を生きたことを、皆さんは知らなければなりません。

のちには十字架にかかったイエス様を、神様までもが「知らない」としました。そのときイエス様が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と叫びましたが、これは願いが絶望に帰し、生涯のすべてが水泡に帰すかもしれないので叫ばれたのではありません。

自分の死によって、父のみ旨を成し遂げて逝けなかったことを心配して叫ばれたのです。イエス様は自分としては果たすべき責任を果たしたので、父が自分を天国に送ろうが地獄に送ろうが意に介さなかったのです。死の友になるべき立場にあったイエス様は、死ぬことに満足し、死ぬことで自分の使命を完遂しようとしたのです。

イエス様は宇宙的な愛をもって来られましたが、それを知った者はいませんでした。このように驚くべき恩賜をもって来られたのですが、いったん死の友になるために乗り出したからには、何の未練ももちませんでした。天の願いを果たすために来られたにもかかわらず、そのような存在として対してくれなくても、反駁したり恨んだりはしなかったイエス様であったのです。

Atsuki Imamura