イエス様の生涯と愛 第60話

ゴルゴタの友となるべきだったペテロと十二弟子

イエス様が死ぬときに抱いたその悔しさとは、何だったのでしょうか。選ばれたユダヤ教がイエス様の胸を痛め、選ばれた民がイエス様を釘付けにしたのです。これが悔しく恨めしいことでした。このようなイエス様は、自分の悲しみが大きかったけれども、四千年間、血の涙の祭壇を築く過程を歩んでこられた神様の事情を考え、四千年間選んで育ててこられたユダヤの民であることを考えるとき、自分の死も忘れて彼らのために祈ることができたのです。

もしイエス様が手を挙げて祈れなかったならば、ユダヤの国が先に審判を受けたはずであり、ユダヤ教徒が先に審判を受けたはずです。死んでいく自分の足跡を追って越えてくることを願いながら、恵みを与えて逝かれたイエス様であることを知らなければなりません。

イエス様の血と肉と共に動くべき群れが正にユダヤ教徒であり、ユダヤの民でなければならなかったのですが、それができませんでした。ゴルゴタの友にペテロがなり、十二弟子がなっていたら、天の恨はなかったはずです。そうなっていたなら、イエス様は死ななかったはずです。

もし十二弟子が団結して、イエス様の死に対して共に死のうと思っていたなら、奇跡が起きていたことでしょう。そうなっていれば、イエス様は死ななかったのです。

ところが三十三年間、選ばれた民族を見つめて悲しまれたイエス様、三年の公生涯の期間に、この地の人類のために泣かれたイエス様、そのイエス様に希望をかけた民族はどこへ行ったのでしょうか。期待していた教会は、どこへ行ったのでしょうか。三年の公生涯の期間に、喜怒哀楽を共にしながら従っていた弟子たちは、どこへ行ったのでしょうか。彼らは自分たちがうれしく楽しいときには、「私はイエス様の友であり、イエス様の弟子である」と言いました。誰よりもイエス様の立場に立とうとしました。しかし最後に至っては、イエス様の行く道とは何ら関係のない立場に立ったのです。

だとすれば、イエス様の恵みは誰が受けたのでしょうか。付き従っていた十二弟子でもなく、天を信じていたユダヤ教徒でもなく、祝福され選び立てられたイスラエルの民でもありませんでした。十字架上で共に血を流しながら死んでいった右の強盗が歴史的な祝福を受けて、一番弟子よりも先に楽園に臨みました。

この事実が悲劇中の悲劇なのです。もし殺人強盗のうち一人でも、イエス様の死の日に共にしなかったとすれば、救いの摂理は挫折していたのです。殺人強盗の流れた血が、イエス様の心情に代わって、地上に福地、楽園を建設する条件を天運とともに立てることができたので、イエス様は復活して地上に再び現れ、不信した民に接することができたのです。

そしてイエス様一人を死の場において新郎として迎えた人がいたので、その基台によって善の実が必ず地上に現れることでしょう。イエス様の代わりに現れるのです。

サタンの勢力がいくら強くても、善を打つにおいて、その善の種の中身まで打ってなくしてしまうことはできないことを知らなければなりません。善のための犠牲と死の立場に立つだけではなく、その善をつかんで倒れる忠節の人がいるとするならば、倒れたその一人によって、何倍にも善が繁殖していくということを知らなければなりません。これが鉄則です。

その当時、反対した人々は、イエス様を十字架で処刑すれば滅びるものと思っていました。イエス様に従う群れが一人もいなかったので、サタン圏では、すべて奪ったものと思ったのです。ところが死んだ右の強盗を条件として、復活の役事を起こしたことを、今日のキリスト教徒は知らずにいます。

Atsuki Imamura