イエス様の生涯と愛 第64話
心情を吐露しきれなかったイエス様
聖書について、研究に研究を重ねるその目的とは何でしょうか。私たちの主、イエス様はどうだったのであり、イスラエル民族の救い主であるモーセはどうだったのであり、家庭的救い主であるヤコブはどうだったのであり、個人的救い主であるアブラハムはどうだったのか、ノアはどうだったのか、アダムとエバはどうだったのかを知るためです。それが正に、頭を抱えて悩む信仰の道です。
人生の根本問題は、どこで解決されるか分かりますか。今日の科学文明を通じて形成されたこの世界観を、うまく説明するところから解決されるのではありません。実証的な論理を立てて、実証的な価値を論じるところから人生の問題が解決されるのでもありません。原点に立ち返らなければならないのです。失ったものを取り戻すには、失った所に行ってこそ取り戻すことができるので、その場所に立ち返らなければなりません。
立ち返るためには、聖書のみ言だけを通して立ち返ってはいけません。聖書のみ言の内幕に隠されている骨髄の心情を通して立ち返らなければなりません。これが道人たちの求めていくべき道なのです。
二千年前に来て亡くなられた、イエス様の心情を通して立ち返ろうというのです。そのイエス様はどのような方だったのでしょうか。四福音書に語られているそのイエス様では、あまりにも足りません。あまりにも不十分で足りないのです。話をされたイエス様の背後、言いたくても言い表せなかったその心情を知らなければなりません。
孤独な身でも、ローマを征服しようとする心情を抱いて見つめたイエス様の胸には、しみ込んだ怨恨の心情、罵倒したい心がどれほどあったでしょうか。しかしイエス様は、語ることができませんでした。一言も言えなかったのです。
本来、イエス様は、十二弟子、あるいは何千人の群衆を連れて回りながら、社会の反逆者、時代の反逆者として訴えられなければならない物悲しいイエス様ではありません。もしイエス様が世界的な反逆者として訴えられる立場に立ったとしても、全世界が動員されて殺されるような立場に立ったとしても、イエス様は死ななかったでしょう。
ところが、イエス様は路地裏を歩きながら、あっちの路地から追われれば、こっちの路地へと避けて回っていた立場で、そのみ言に、イエス様の理念と心情がすべて吐露されているのでしょうか。とんでもないことです。それをもってしては、イエス様が語られたみ言は理解できたとしても、言いたくても言えなかったイエス様の内密の心情は理解できないのです。
イエス様の悲しみと神様の悲しみ
天の恨を解くために来られたイエス様は、幸福をもって現れることができず、自由をもって現れることができませんでした。彼は神様の前に最高に善なる立場にありながらも、罪人の中の罪人のように現れたのです。これほど悲しいことがどこにあるでしょうか。
全天上が歓喜し得る天の王子であるにもかかわらず、地上では踏まれる王子であり、迫害される王子であり、消え去っていく王子のように生きられたイエス様の悲しみ以上の悲しみはないのです。
自己の威信や自己の身の振り方、そして受けた使命を成し遂げられず、逆境にぶつかり言葉なく消え去っていったイエス様以上に悲しい者が、どこにいるでしょうか。イエス様は四千年間、天が苦労して選民に選び立てたイスラエル民族に排斥されたのです。摂理のみ旨に従わせるために、長い間愛してこられたユダヤ教団に迫害されました。
それだけではありませんでした。愛する氏族に追われ、愛する弟子に追われたのです。このとき、もしイエス様が人間的な恨をもったとするならば、彼らを呪うことしかできなかったでしょう。民族のために来たのに教団から裏切られ、氏族や親戚、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られた立場だったのです。
このような立場でイエス様が、怨恨を抱いて彼らに対して呪おうとするなら、言葉では表現し切れない呪いとなり得たことでしょう。それにもかかわらず、イエス様はむしろ歴史路程を経てきながら、被ってきた彼らの悲しみの恨をつかみ、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。このようなイエス様の事情を知らなければなりません。
イエス様が天国建設の王子だと思ったのですが、そうではありません。それはのちにすることです。イエス様はこの世のすべての悲しみを取り除くために、数多くの預言者や烈士が善を願い、み旨を願ってきた歴史路程の哀切な心情、身にしみた怨恨の心情を体恤して現れた、歴史を代表した悲しみの王子でした。
暗闇の世界で、サタンの主管下で呻吟し、行き先も分からず、苦痛の中にいる世界人類に代わって、彼らのすべての荷を背負わなければなりませんでした。内的には悲しみの心情に責任を負い、外的には苦痛の荷に責任を負い、これをサタンの前で解決し、天の前に勝利の土台を立てるべき悲しみと苦痛の王子だったのです。
そしてそのようなイエス様がこの地に来られて、人間のためにそれほどまでに悲しみと苦痛の中で生きる姿を見つめる神様の心情は、イエス様の悲しみ以上、イエス様の苦痛以上、イエス様が感じる恨めしさ以上の恨に徹していることを知らなければなりません。