イエス様の生涯と愛 第58話
イエス様の十字架は第二次の摂理
イスラエル民族の前にメシヤが来た目的は、サタン圏をたたきつぶして人類を神様の前に取り戻すことでした。それにもかかわらず、サタン主権と人類をそのまま残して十字架の道に行くイエス様は、ゲッセマネの園で血のにじむ闘争の祈祷を捧げざるを得なかったという事実を皆さんは知らなければなりません。
イエス様は自分の意思で十字架に行く場合には、四千年間準備したイスラエルの国が滅び、ユダヤ教徒が滅び、洗礼ヨハネや彼の使徒たちが天に負債を負うことをよく知っていたので、談判祈祷をせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。
イエス様は肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんのこと実体世界でも、神様の王権を回復するために来られました。ところがイスラエルの国の土台がなくなり、ユダヤ教の土台がなくなって、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第二次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。国が反対し、教会が反対して、十字架に行く道しかなかったので、神様もやむを得ずひとり子を十字架に差し出さざるを得なかったのです。
その四千年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったことは、神様の絶対予定の中で死んだのではありません。サタンに引きずられていき、十字架で亡くなったのです。十字架はすべてを失った立場であることを知らなければなりません。国を失い、教会も失い、洗礼ヨハネも失った立場です。そこは十二使徒もみな裏切った立場であり、その後、右の強盗までも死んでいった立場であることを知らなければなりません。誰一人としてイエス様の味方に立った人や、天の側に立った人がいない、すべてを失ってしまった立場だったことを知らなければなりません。
民族と教団を失ったイエス様には、これを再び収拾すべき二次的な路程が残っていました。その二次的な路程を行くためには、神様が四千年間苦労された内的な因縁と、教団と民族に残った外的な因縁を決定しなければなりませんでした。このような使命がイエス様にあるにもかかわらず、彼の弟子たちはそのことを全く知りませんでした。その無知な者たちに何が分かるでしょうか。イエス様が、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と語られるとは、どれほどもどかしかったことでしょうか。これは、どれほど物悲しい言葉でしょうか。
イエス様の行く道は、民族の前に追われる道であり、苦難の道であり、迫害の道であり、イスラエル民族を再創建する道でした。神様がイスラエルの国を立て、ユダヤ教団を立てるために四千年間苦労されたその苦労を、短期間のうちに条件だけでも備えて蕩減すべき責任が残っていたにもかかわらず、栄光ばかりを望む弟子たちしかいなかったのです。
ですからイエス様は、やむを得ず一人で天と地と歴史的な因縁に責任を負い、十字架の前に向かったのです。その地上に立てた民族が責任を果たせなかったこと、立てた弟子たちが責任を果たせなかったことを代わりに責任を負おうと踏み出した歩みが、ゲッセマネの園からゴルゴタの山頂までの歩みであるということを、私たちは知らなければなりません。
十字架にかけられていたイエス様の悲しみが、どれほど大きかったかを考えなければなりません。イエス様が亡くなる直前に、全地に暗闇が臨みました。イエス様が十字架にかかって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と言われました。神様に捨てられたのです。どれほど悲惨でしょうか。
四千年間それほどまでに摂理を率いてこられながら、天の国がこの地に立てられることを待ち焦がれて送ったメシヤが亡くなるその時間は、神様までも十字架から顔を背けなければならなかったのです。神様の王子として来たイエス様が、どうして「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、悲運の言葉を残さなければならなかったのでしょうか。これは人類歴史の汚点です。歴史的汚点なのです。
今日、世界中に散らばる数多くのクリスチャンたちが行くべき道とは、どのような道でしょうか。イエス様がゴルゴタの山頂で残された恨を清算するために、涙と血と汗を流さなければならないのです。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの山頂に登るとき、その後ろをついてきた女性たちが涙を流すのを見て、「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われました。
もっともな言葉です。「私の涙は人類に残る。私が行く十字架の道は、これで終わるわけではなく、歴史的な十字架の道になる」ということを予告なさったのです。「私が個人的に行くならば、私の責任は終わるが、私が行ったのちにあなたたちの責任は残るのだ」というのです。したがって個人的な責任、家庭的な責任、氏族的な責任、民族的な責任、国家的な責任、世界的な責任、天宙的な責任が残っているので、その責任を果たすためには今後、数多くのキリスト教徒たちが涙の道、十字架の道を行かなければならないというのです。
そのような大変な十字架を背負って行くイエス様は、歴史を探り、世界を探り、あるいは過去を悔い改め、時代を批判しながら、審判の一基点を残さなければならない悔しい立場にあっても、苦労なさる神様をこの地に迎え得る一つの土台を準備するために、厳粛に黙々とゴルゴタの山頂まで行ったことを知らなければなりません。
イエス様が十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言ったその言葉は、自分個人だけを中心として言ったものではなく、この上なく大きな使命を帯びて来たメシヤとして言った言葉なのです。「私は捨てられても構いません。しかし私と共にした数多くの人は捨てないでください」ということなのです。ペテロを捨てず、洗礼ヨハネを捨てず、十二弟子を捨てず、イスラエルの国を捨てず、今後やって来る数多くのキリスト教徒を捨てないでほしいとお願いした言葉なのです。これがイエス様の歴史的な最期の一言だったのです。