イエス様の生涯と愛 第53話

三、メシヤ降臨に関する旧約の預言とその結果

 

両面で預言されたメシヤの再臨

メシヤが雲に乗って来ると思っていたユダヤ教徒たちの前に、イエス様が人として現れたので信じなかったのです。それゆえ、このように旧約聖書に対し誤った解釈をすることによって、来られたメシヤを捕らえて殺したというこの途方もない事実を、今からでも知って悔い改めなければなりません。

さらに一つ、はっきりと知っておかなければならないこととは何かというと、聖書は両面から預言されているということです。なぜ両面から預言されているのでしょうか。堕落した人間は、責任を果たすことも果たさないこともあるからです。神様と一つになっていた人が背を向け、サタンと組んで神様を滅ぼしたり、サタンと組んでいた人が神様のところに戻ってきて、サタンを滅ぼしたりするのです。それゆえ人を、神様も恐れ、サタンも恐れているのです。

ゆえに旧約聖書のイザヤ書第九章、第十一章、第六十章、この三つの章には、栄光の主として堂々と来ることを預言していますが、第五十三章においては苦難に遭うことが預言されています。ところが信じて迎えることができなかったので、イザヤ書第五十三章の預言が成就したのです。信仰によって成就すべきことが、不信仰によって成就しなかったので、それが延長されて再臨の時を迎えなければならないのです。

それでは、新約時代に来るべきメシヤの立場を、新約聖書はどのように預言しているでしょうか。新約聖書もメシヤが来ることに関する預言は、旧約聖書と同じです。ヨハネの黙示録第一章7節を見ると、再臨するメシヤは間違いなく雲に乗って来るとあります。しかし、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、メシヤは「盗人が夜くるように来る」と預言しました。雲に乗って来るのに、盗人のように臨めるでしょうか。

今日のキリスト教徒は、自分勝手に雲に乗ってくることは信じ、盗人のように来ることは信じないのでしょうか。自分勝手にそのように信じられるのでしょうか。ですから私たちは、知恵深くなければなりません。旧約時代の実情を推し量ってみるならば、主が雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得るということを知らなければなりません。

Atsuki Imamura