イエス様の生涯と愛 第52話

ペテロの痛悔と新しい決心

天に向かう信仰路程において、永遠、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑わずに推し進めるイエス様を見つめる瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きようという衝動感が起きたことを知らなければなりません。不信の自我を悟ったときから、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいはお互いの生涯を比較しながら、自分の足りなさをより強く感じるようになったのです。

イエス様が天のみ旨一つのために、この地上の万民のために自分の幸福を求めず、自分のすべてを天の前に供え物として捧げられました。十字架に引かれていかれながらも、恨まないイエス様の姿を見守りながら、三弟子は自分たちの生涯があまりにも自分中心的であったことを感じるようになりました。そうして自分を中心としないイエス・キリストの前に、弟子たちは自ら自己を反省し、イエス様が常に願われたみ旨を引き継いで、この地上でそのみ旨を実践しようと、心に確認して誓うことができたのです。

それからペテロは、どのようなことを感じたのでしょうか。自分の不信を感じると同時に、周囲の不信を感じたのです。罪のないイエス・キリスト、どこの誰に尋ねてみても罪がないというイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛り、むちで打って喜ぶのを見ながら、ペテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しく孤独な心を見抜くことができました。

このような悔しい立場でも、天の道を守っていく姿を見せるイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の人々の不遜さを感じたのです。そこからイエス様の弟子ペテロは、イエス・キリストの味方になり得ない悪なる群れを滅ぼすために、主が再び来られるまで、周囲の不遜な勢力と戦おうと、正義感あふれる覚悟をしたのです。

天に向かって歩んでいくイエス様の善なる不変の姿と、周囲の人々の不遜さは、天地の差がありました。それゆえ、瞬間的に振り返るイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自分の愚かだった生涯を清算することができ、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならないと決心をし、より一層神様に向かったのです。

言葉なく、天のため地のため、万民のため、み旨のために亡くなったイエス・キリストの死を通して、ペテロはおのずと主を尊敬するようになり、その死の前に懺悔の涙を流して痛哭したのです。

この事実が、最後に振り返られたイエス・キリストをして、自分を認めてくれる使徒がいることを感じさせ、途絶えた天と人間の因縁が回復する瞬間であることを感じさせたのです。ペテロー人だけが、天と地、そして万民と数多くの使徒を代表して、神様のみ旨の前で亡くなったイエス様に対して、自分の足りなさを感じ、痛悔(心の底から悔やむこと)の涙を流したのです。

このように主が十字架で亡くなる前に苦難を受けられる姿を見て、ペテロだけが痛哭しながら悲しく泣いたのです。このようなことがあったからこそ、イエス様が使徒たちを中心として役事することができる基準、イエス様と人間たちが互いに因縁を結べる新しい基準が造成されたことを、皆さんは知らなければなりません。

イエス様が十字架に亡くなってから今日まで、キリスト教徒が神様のみ旨だけをつかんで、復活と再臨の時を待ち焦がれたことと同じ立場を、皆さんもいずれ経なければならないのです。

そして、ペテロのような立場も蕩減復帰しなければならないのです。これが皆さんの信仰の路程に残された最後の運命であるとするならば、深刻な立場で真剣にイエス様と自分との間を振り返ってみながら、イエス様の志操を見習うことができなければならず、イエス様のその姿勢の前に身をかがめ、痛悔できなければなりません。

私たちが今までの信仰生活の中で、主が私たちのことを心配するように、私たちも主のためにどれほど心配しながら生きてきたのかが問題です。自分はイエス様のことを心配しながら一生涯生きてきたとしても、どうして死の立場を克服しながら、ペテロを見つめたイエス様の生涯と比較できるでしょうか。

今や蕩減復帰原則によって、イエス様が死の道で群衆を振り返られたように、私たちも死の道でイエス・キリストを振り返る自分とならなければなりません。そのような立場で、イエス様に代わる立場に立つと同時に、イエス様を栄光の場に迎えてさしあげるために、イエス様の苦痛を代わりに受け、イエス様の心配を代わりにしなければならないのです。皆さんに、そのような時があったのかということが問題なのです。

もし皆さんに、そのような時がないとするならば、「終わりの日」すなわち復活の栄光を迎えるときに、マグダラのマリヤが復活されたイエス・キリストをつかもうとしたように、皆さんが復活の主をつかんで、「私の主よ、私の新郎よ」とは言えないでしょう。

イエス様が十字架への道を歩むなかでペテロを振り返られることによって、初めてペテロと三弟子を探し出すことができたのですが、イエス様を直接つかんで天国まで行っている聖徒はいないのです。

 

四位基台が造成されれば、サタンが侵犯できる圏内から抜け出すことになるので、イエス様は昇天せずにこの地上で家庭の基盤を築くことができるのです。

家庭基盤を備えるためには、イエス様が新婦である聖霊を迎えなければなりません。実体聖霊を迎えるようになれば、平面的な基準を中心として思いのままに活動ができます。ところが弟子たちが息子、娘の基準を立てられなかったので、イエス様は霊的に条件だけを立てることになったのです。これがイエス様の恨なのです。このように地上で完全蕩減の基準を立てられなかったので、やむを得ずイエス様は昇天することになったのです。

Atsuki Imamura