イエス様の生涯と愛 第50話

イスカリオテのユダの不信

このような立場で、ヨセフとマリヤは一緒に暮らさなければなりませんか、暮らしてはなりませんか。暮らしてはなりません。ヨセフは天使長と同じ立場です。ですから彼らが一緒に暮らすということは、アダムとエバの堕落を継承して繰り返すのと同じことなのです。

ここでマリヤはイエス様と一つになって、いかなる犠牲を払ってでもイエス様の相手を求めてあげる使命を果たさなければなりませんでした。しかしその使命が果たせなかったことによって、すべてを失ってしまったのです。ヨセフを中心とした家庭において、すべてを失ってしまったのでイエス様は家を出て、相手を探し求めなければならなかったのです。

それならば、家を出てこのことをしなければならないという場合に、ヨセフと同じ立場に誰を立てるのかということが問題なのです。これは正にイスカリオテのユダが適格者でした。

またマリヤの立場に立ち得る人をどこから探さなければならないのでしょうか。家庭において、マリヤとヨセフが失敗したので、これを再び取り戻さなければなりません。これを復帰しなければ、イエス様は使命をつなぐことができないので、このことを外的にするためにイエス様は家を出たのです。そうして十二弟子を探し立て、イスカリオテのユダを中心として、このことをしようとしたのです。それにもかかわらず、彼のみ旨は成し遂げられなかったのです。

では、その原因は何でしょうか。イスカリオテのユダは、なぜイエス様を銀貨、三十枚で売ってしまったのでしょうか。イスカリオテのユダがイエス様を売り飛ばしたのは、お金ゆえでしようか。イスカリオテのユダは、愛する妻を、昼夜イエス様に仕え、忠誠を尽くせるように協助しなければなりませんでした。

妻と別れることがあったとしても、その妻をイエス様の母と同じ立場に立たせ、イエス様に協助できる基台を準備してあげなければならなかったのです。それにもかかわらず、その責任が果たせなかったのです。このような基台がすべて崩れたので、イエス様は行く所がなく、やむを得ず十字架で亡くなられたのです。このようにイエス様は、悲運の歴史を背負って亡くなったので、今日、我々統一教会ではこのような歴史を解怨しなければならないのです。

 

責任を果たせなかった三弟子

イエス様がイスラエル民族を中心としてローマ帝国を屈服させていたならば、その地でキリスト教の主権を中心として新しい理想世界が出発していたはずです。しかし、イスラエル民族がイエス様と一つになれなかったことによって、イエス様が亡くなったのちに地の基盤を完全に失ってしまい、さまよう雲のように東から追われれば西に行き、西から追われれば東に行くという立場に立ったのです。このように国のない民として、霊的な国を追求して二千年、民主世界を発展させ、その基盤に代わり得る道を探し求めてきたのが、今までのキリスト教の歴史なのです。

聖書を通して知らなければならないことは、アダム家庭のカイン、アベル、セツの三人の息子が互いに一つになれずに落ちてしまったので、アダムの代わりに父母の立場で来られたイエス様に対して、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを立てたということです。アダムの家庭を中心として、三人の息子が一つになれなかったので、これを再び取り戻して一つにしなければ、父母の立場、アダムの基準を復帰することができないのです。したがって死地でさえも一つになって連れていかなければならないイエス様の運命なので、ペテロ、ヨハネ、ヤコブをゲッセマネの園に連れていって、徹夜しながら祈らなければならなかったのです。

ここで父母の立場であるイエス様が十字架で亡くなる前に、誰が先に死ななければならないのかというと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子です。イエス様よりも彼らが先に死ねば、どうなるのでしょうか。復活させるときに、ペテロ、ヨハネ、ヤコブも復活するのです。そうなると、どうなるのでしょうか。地上で四位基台が形成されるのです。

Atsuki Imamura