イエス様の生涯と愛 第49話

変貌山での悲壮な決心

変貌山に登るとき、三弟子がイエス様のあとについていきました。彼らは外見からすれば民族を代表して選ばれた弟子の立場でしたが、イエス様にとっては何の助けになる条件も立てられない弟子たちでした。

イエス様が荒野を訪ねていくときは、それでも天使が来て仕えたのに、民族のために戦い、民族のために死を覚悟して変貌山を登るときは、民族を代表してついてきた三弟子でさえも、イエス様に仕えられなかったのです。それを考えると、悲しみで始まり悲しみで終わったイエス様の生涯は、悲痛なものであったことを、私たちは感じざるを得ないのです。

そのイエス様はひざまずいて天を仰ぎ、「私の力の及ぶ限り、私にあるすべての精誠を尽くして、願われるみ旨に従ってまいります」と祈られました。歴史的ないかなる先祖たちよりも、固い志操と忠義と誠心と努力を傾けて三年の公生涯路程を歩まれましたが、民族から追われ教団から追われました。親戚や弟子たちが、誰一人として自分の味方になってくれない中で、イエス様は天に向かって祈祷する生活をしたのです。

イエス様の心情は、自分が孤独な立場で悲しみを感じること以上に、神様が人間に対して四千年間苦労してきた歴史の結果がこの有様なのかと思い、神様に自分の心情を告げるにはあまりにも心苦しい気持ちであったことを知らなければなりません。

そのような心情に徹したイエス様には、民族に対する恨みの心や、教団に対する恨みの心、あるいは堕落したアダムとエバに対する恨みの心がわき出ることはありませんでした。人を恨む余地がなかったイエス様であったことを、私たちは知らなければなりません。

昔、先祖たちは、悲しいとき天から慰めを受けましたが、イエス様は悲しい立場にあっても、「悲しい」と祈れない自分であることを悟っていたのです。祈ろうとする前に、既にすすり泣きの涙がイエス様の膝をぬらしていただろうと私は思います。

その姿は、天地の上に罪人の中の罪人同然でした。四千年間、苦労の歴史を繰り返して摂理された神様の前に、勝利の条件を立てられずに敗北の一路で悲しい事情を抱き、変貌山上に独り現れて、天に対して訴えざるを得ない立場に立ったイエス様は、とても口を開いて祈ることはできなかったのです。

その姿と事情が哀れだったので、神様はエリヤとモーセを送られ、エルサレムでのイエス様の死について話し合わせました。弟子だけでなく、神様が悲しみに浸ることを知ったイエス様は、民のために、またこの後代のために天を心配されて、過去と現在と未来を前に悲しまれたのです。

死の道を歩んででも希望がなく、行く手が遮られた中に置かれたユダヤの民を生かさなければならないことを感じたイエス様は、かつてのエリヤのように「アバ、父よ!ただ私だけが残りました」と訴えるそのような祈りの心情で、神様の前に現れたのです。このようなイエス様の心情は実に悲痛なものだったのです。

エルサレムで死ぬことを予告されたイエス様は、その死の一日を人知れず準備しました。イエス様は自分の死の日がだんだんと差し迫り、事態が入り乱れていくのを感じました。また愛する弟子が自分を売ることを知り、自分が十字架に進む前に、まず世の中の万事を終結させなければならないと、深刻な思いをもちました。そのような心情が、彼の身と、心にしみ込んでいたのです。

死を前にして、最後の道を行くべき救世主の使命を負った自分であることをイエス様は知っていたので、死の道を経たのちの行くべき方向を設定しなければならなかったのです。イエス様は自分のこのような死によって、歴史的な悲しみと時代的な悲しみ、そして未来の悲しみがなくなるどころか死の峠を越えたあとまでも、もつれたまま残っているのではないかと心配したのです。このようなイエス様の心情は、いかなる時よりも悲壮なものであったことを知らなければなりません。

このような心情にとらわれているイエス様のことを分かってあげた人は、地上に一人としていませんでした。その事情を分かってあげた弟子は一人もいなかったのです。イエス様の事情が分かる方は、神様しかいませんでした。

そうしてイエス様は、人には分からない悲しい心情をもつようになり、歴史的、時代的、未来的な怨恨を抱くようになり、悲運の障壁と黒い雲が目の前を遮る環境、死に追い込まれる悲惨な環境に処したのです。このようなイエス様の心情は、悲しいと言えばこの地上のどこの誰よりも悲しい心情であり、悔しく無念であると言えば、どこの誰にも比べものにならないほど悔しく無念であったことでしょう。

Atsuki Imamura