イエス様の生涯と愛 第48話

弟子たちの不信と無知

イエス様は自分の一身を越え、家庭と社会と国家と世界、さらには無限の霊界まで復帰すべき使命が自分にあることを知っていました。したがって、イエス様が個人を求めてさまよわれたのは民族を求めるためであり、民族を求めてさまよわれたのは世界を求めるためでした。そして世界を求めるために今日まで二千年間苦労されたのは、天上天下すべてを神様が治める所につくるためだったのです。

ところが、このような事実を人々は知りませんでした。したがってイエス様は、天宙的な計画を実現すべき自分の前に現れるそのような群れに、神様の深い心情とみ旨を語ろうにも語れなかったのです。このように哀れな状況に置かれたイエス様であられたことを知らなければなりません。ですからイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)とおっしゃったのです。

イエス様は、全世界万象を復帰すべき神様の摂理を代わりにするという天宙的な使命感に燃えて、天に対して忠誠の道理を果たそうとしたのですが、当時の人間はそのようなイエス様が分からなかったのです。

では今日、皆さんはどうでしょうか。「私はイエス様を数十年間信じてきました。私は牧師だ。私は長老だ。私のことを神様が知らないはずがない」と主張する人たちがいますか。そのような人がいるならば、その人は神様の前に頭を下げて涙を流さなければなりません。四千年間、選民圏を誇っていたイスラエル民族が滅びるとは、誰が知っていたでしょうか。三年の公生涯過程で、イエス様と喜怒哀楽を共にした十二使徒までもイエス様を不信するとは、誰が知っていたでしょうか。誰も知らなかったのです。

ではどうして、このような矛盾の歴史が起きたのでしょうか。イエス様の観念や願いが、弟子たちの観念や願いとは異なっていたからです。それで弟子たちが、イエス様を不信したのです。

それならば、イエス様の当時に万物のわめき声を聞き、闇の中にいた人間が天に向かって「彼らを解放させてください」と祈った、その悲しい心情を感じ、涙を流したことがありますか。またはあの霊界で、数千億の霊人が嘆いているわめき声を聞いたことがありますか。イエス様は聞かれたのです。イエス様は人類歴史の終末に、審判の硫黄の火が降り注ぐその審判のむちを知って、涙を流されたのです。

Atsuki Imamura