イエス様の生涯と愛 第47話

イエス様の教えどおりに行動しなかった弟子たち

イエス様の心情が分からない弟子たちは、イエス様を利用して高い位置に上がろうとしました。それを知ったイエス様は、地をたたいて泣いてもその心を晴らすすべがなく、天に向かって痛哭しても、これを晴らすすべがない悲しい心情をもって生きられたのです。

しかし行くまいとしても、行かざるを得ない使命の路程が残っているがゆえに、その心を抑えて弟子たちに対して、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・12)と言われました。自分の心中、骨肉にしみ込んだ決心の一端を再度証されたという事実を知らなければなりません。

その時この言葉を聞いた弟子たちは、それはイエス様の言葉であって、自分たちとは何ら関係がないと思いました。弟子のヨハネの母が自分の二人の息子を「終わりの日」に、栄光の立場に立ててくれと言ったときの、もどかしく惨憺たるイエス様のその心情をいま一度考えてみてください。イエス様は哀れな方です。イエス様が弟子たちにそのように教えてあげ、そのように訓戒してあげたにもかかわらず、彼らはそのみ意が分からなかったのです。

それゆえ付き従う群れが多くなればなるほど、弟子たちは自分たちがうれしいという行動を表しましたが、イエス様が自分たちに実践して見せ、教え、訓戒してくれたことを見習い、イエス様に従う群れの前に見本となって、イエス様を高めイエス様をあがめるそのような供え物の立場には立てなかったのです。かえって弟子たちによって、他の人たちがイエス様の前に出ていくことが難しくなったのです。

それにもかかわらず、イエス様はその弟子たちには弟子たちを越えて、教団が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、教団には教団を越えて、民族が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、民族には民族を越えて世界が叫んでいることを、世界人類には世界を越えて天が叫んでいることを成就すべき責任があることを知りました。

しかし、このような彼の心情を誰一人として知る者がいなかったのです。そのような事情に置かれているイエス様にとって、自分だけに向き合ってほしいという幾人かの弟子たちを見つめることは、どれほど悲しかったことでしょう。イエス様は千辛万苦して真心を尽くす聖徒たちがおなかのすくときには、餅を作って食べさせてあげ、彼らが「時」のために泣くときには、彼らを慰めてあげ、失望するようなときには、八福の教え(山上の垂訓<マタイ五・3~10))を通して天の祝福を紹介しました。

このように彼らを率いて回りながら、失望するのではないか、あるいは離れていくのではないかと心配をされたイエス様の心の切ない事情を表現したものが、正に福音書のみ言であることを私たちは知らなければなりません。

さらには、一つの事情をかけて話せば話すほど、そのみ言を聞いて近づくべき弟子たちであるにもかかわらず、かえって遠ざかる立場に行く弟子を見つめるイエス様の心情を感じなければなりません。

ついには腰に手ぬぐいを巻いて、たらいで弟子たちの足を洗ってあげながら、私の道理は「仕えること」であると主張したイエス様でした。このようにしてこそ、天と因縁を結べることを知っていたイエス様だったので、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。このように悲しみを感じながらも、弟子たちを見つめられたイエス様であったことを知らなければなりません。

復帰の路程を歩まれたイエス様が、奇跡を喜んで行われたのではありません。うれしくて安らかなので奇跡を行ったと思ったら、大きな誤解です。この地には身の置き所がなく、この宇宙の中には頼る所がないので、天に向かって訴えまいとしても訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にあったイエス様の切なる姿を見つめなければなりません。

イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情に処し、手を挙げて「父よ!」と呼ぶときに、そこで奇跡が行われたのです。骨肉が溶けるような悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたものが奇跡であったことを知らなければなりません。その奇跡は、イエス様が怠慢で、あるいは好きで行ったものとは思わないでください。

ベツサイダの町で五千人余りの群衆が、「イエスよ、あなたは復活した預言者の一人であり、選ばれたイスラエルの指導者であられます」と、手を振りながら叫びました。このように、利益になり得る立場のときは訪ねてきましたが、時が過ぎ、イエス様が自分たちと心的基準が変わり、事情が変わり、標準の違う境地へとさらに一歩進むと、彼らはイエス様を裏切って背を向けました。これがイエス様の歩んでこられた路程にあった現象です。

Atsuki Imamura