イエス様の生涯と愛 第46話

イエス様の心情を知らなかった弟子たち

変貌山上でのイエス様は、喜びませんでした。この変貌山上であった事件と場面は、神様または人間の誰も知らない悲壮な場面に違いありません。今日この事実を、自分を中心として推し量ってはいけません。

変貌山上の三弟子は、燦爛と輝くイエス様の姿を見て、「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(ルカ九・33)と言いながら、そこに永遠にとどまろうと話しました。このように三弟子は現れる環境で楽しもうとしたのですが、イエス様の心情はそのようなものではなかったのです。

その時に現れた変貌山上の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエス様の心情は、歴史的な内的悲しみと未来の悲しみが身にしみるようでした。ところが三弟子は、イエス様がこのような悲しみの心情に浸っていたことを知りませんでした。

過去の歴史的な悲しみに浸っている背後関係のすべてを乗り越え、最後にはイエス様に橋を架けて、神様をつかんで談判できる立場にまで進まなければなりません。また悲しむこの民族の背後には、民族に代わって隠された祭壇を築き、誠を尽くしている群れがいることを知らなければなりません。

教団に代わって涙を流す人は、祭司長と同じ職分をもっている人です。ヤコブが二十一年間、人知れず祈祷をしたのも、神様の摂理がアブラハムから三代にまでつながっていることを知っていたからでした。それで彼は、民族のための蕩減の路程を黙々と歩みました。モーセもまた民族のために、パロの宮中における四十年の生活とミデヤン荒野での四十年間の祈祷生活をしたのです。

今日、民族に対して悲しみの祈祷をする教団と涙を流す人がいるなら、彼らには既に祭司長的な職分が与えられているようなものです。ところが、天が「切迫した心情で天の前に談判の祈祷をしてみたことがあるか」と尋ねるとき、どのような返事ができますか。今からでもそのような決心をもって、「終わりの日」に責任を持ち得る働き手とならなければなりません。

皆さんのいる立場がそのような環境になり得ないとしても、とどまる環境において実践しなければなりません。それぞれの地域に責任を負った、変貌山上のイエス様のような聖徒たちがたくさん現れてこそ、キリストの解怨がなされるのです。今日私たちは、昔の三弟子よりも多くのことを知り、イエス様の心情と神様の悲しい心情を解怨してさしあげられる真なる子女にならなければなりません。

Atsuki Imamura