自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第58話
天の摂理において、アジアが未来の大陸として脚光を浴びている理由は、家庭連合の勢いが最も盛んだからです。最初に家庭連合(統一教会)を受け入れた所は日本です。一九五八年七月、崔奉春(日本名、西川勝)宣教師が釜山から密航船に乗って日本に渡り、宣教を始めました。宣教の路程は苦難の連続でしたが、凄絶な闘いを通して日本の地を開拓し、ょうやく一九五九年十月二日金曜日の午後七時十五分、東京の古い建物の二階に四人が集まって、日本の家庭連合史における最初の礼拝を捧げたのです。その後、六十年以上の歳月をかけ、家庭連合は日本全国で着実に成長を遂げてきました。
しかしその路程は、ほかに類を見ないほど険しいものでした。キリスト教会からは異端だと絶えず非難され勝共運動をしているという理由で、共産主a者からは激しい迫害を受けました。殉教する人も出るなど、苦しみはとどまることを知りませんでした。
さらに日本政府は、ダンべリー刑務所での収監期間のゆえに、夫の文総裁に入国ビザを出すこともしなくなったのです。また、有名人が次第に祝福結婚式に参加するようになると、反対している人々は教会が大きくなっていくことに脅威を感じ、マスコミを通して猛烈に批判してきました。家庭連合に通う息子、娘を親が拉致監禁し、大きな社会問題にもなりました。
それにもかかわらず、日本家庭連合は成長を続け、日本社会の大きな灯火となったのです。これまでに数万人の日本人信徒が世界各地に向かい、宣教と奉仕を通して、「原理」のみ言を伝えるために精誠の限りを尽くしてきました。
一方、日本には韓民族の多くの同胞も住んでいます。しかし一九九〇年代に入るまで、在日大韓民国民団(民団)と在日朝鮮人総敝合会(朝鮮総連)は、同じ韓民族でありながらも思想的背景を異にするため、互いに排斥し合っていました。同じ民族がまるで水と油のように交わらずにいるというのは、大きな不幸でした。
私たちは勝共活動をしながらも、その一方で、朝鮮総連と忍耐強く関係を築いてきました。
朝鮮総連の同胞の韓国訪問を推進すると、彼らは最初、疑いの眼差しを向けてきましたが、真摯に向き合って誘っていく中で、次第に気持ちに変化が起こり、韓国訪問団に参加するようになったのです。一度韓国に足を運んだある朝鮮総連の同胞は、共産主義を捨てました。
私は一九六〇年代から、時間ができるたびに日本を訪ね、信徒に会って話をし、宣教師たちを励ましてきました。東京、名古屋、北海道など、#々な都市で百数十回も大会を開き神#のみ言を伝えました。
中でも長野は、冬季オリンピックが開かれたこともある中心都市です。この地域の家庭連合は当初、信徒の数が少なく、教会の建物も小さかったのですが、私の励ましに勇気づけられ、成長を重ねてきました。美しく建てられた教会の隣には、「花郎徒」という名前が付いた小さな修練所もあります。新羅時代の花郎徒の精神を高く掲げ、自分たちでそのように名付けたということです。
私はこの教会を訪れて信徒たちを励まし、ここから神様のみ旨を結実させなければならないと伝えました。そうして、教会の裏手にリンゴの木を一本、植えたのです。それからしばらくして再び行ってみると、リンゴの木はすくすくと育ち、立派な実を実らせていました。そのリンゴの木のように、日本に蒔かれたみ言は芽を出して大きく成長し、多くの実を結んでいます。
また、日本が天災地変や困難に遭うたびに、私は心を傾けてきました。近年では、数多くの命を奪った東日本大震災をはじめ、熊本地震、岡山県の水害(西日本豪雨)など、災害が起こるたびに慰労しました。
二〇一八年の夏、日本のさいたまスーパーアリ—hで宣教六十周年記念「二〇一八神日本家庭連合希望前進決意大会」が開かれました。私は、日本は過去の過ちを認め、未来のために韓国と一つになり、手を取り合って進まなければならないと話しました。そして、私はその場で、日本と韓国が一丸となって日韓トンネルを開通させ、世界中を結ぶ国際ハィウェィを建設することを改めて提唱したのです。
私は、日本を「神日本」として祝福しました。それ以降、新しく生まれ変わった日本は、社会と文化が根本的に変化してきています。神様の懐に抱かれて何万人もの人が新しい人生を出発しており、毎年数万、数十万人の信徒が玄界灘を渡って、信仰の祖国である韓国を訪れています。その足取りが、一時は怨讐関係にあった韓国と日本の和合に向けた、架け橋となっているのです。
天の摂理のために、真の父母は日本を母の国として祝福しましたが、母親は子供のためならば、すべてを惜しまずに捧げます。子供の世話をするために、母親が夜を明かすこともあるょうに、日本は全世界のために、自ら進んで犠牲の道を行かなければならないというのです。母の国として、世界のために献身しなければならないのです。
中南米に蒔いた愛と奉仕の種
「悲しみで言えば、中南米も、アフリカに勝るとも劣らないでしょう」
中南米の人と話をすると、必ず出てくる哀訴です。その訴えはさらに続きます。
「資源の多いことが、むしろ私たちの生活を疲弊させることになったのです」
中南米は、アフリカに負けず劣らず、無慈悲に搾取された歴史を持つ大陸です。五百年近く、ョーロッパ.の強大国から植民地支配を受け、多くの資源を収奪されたため、いまだ貧しい国が少なくありません。
特に先住民には、収奪の傷跡以上に、抹殺された同族の人々の凄惨な記憶が残っています。ヨーロッパの人々は、ただダィヤモンドなどを手に入れるため、植民地を少しでも広げるため、伝染病の流行を放置して先住民を根絶やしにしょうとまでしたのです。
二度の世界大戦を経た後も、共産勢力が勢いを増したため、民主主義が定着するまでに多くの困難を経ました。その過程で血なまぐさい内戦も起き、数多くの人々が命を落としました。そのため、私は中南米の空港に降りるとまず、その傷ついた霊魂を慰める解怨の祈りを捧げています。
凄絶な受難を経たにもかかわらず、中南米の人々は純朴で、みな少しでも良い生活をするために汗を流しています。宗教に深く帰依する心もあります。資源は豊富で、天候は一年中暖かく、人が暮らすのに適した所です。また、原始の自然がそのまま残されており、まさに天恵の地と言えます。中南米に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる大地と太古の自然、親切で善良な人々の姿に、誰もが大いに好感を持つことでしょう。
その中南米に、私たち夫婦は誰よりも深く精誠を尽くしました。家庭連合が中南米に最初の一歩を刻んだのは、一九六五年のことでした。その後、宣教師たちが中南米の各地に渡って教会を建て始め、信徒が徐々に増えていきました。中南米の大半の国はカトリックが生活宗教として根づいていますが、私たちは精誠の限りを尽くして「原理」のみ言を伝えました。
私たちは多くの大会と行事を行い、数多くの宣教師や世界各国の信徒が中南米を訪れて奉仕活動を行いました。小学校から大学まで学校を建て、原生林を開墾し、農場を造って貧しい先住民の生活を向上させました。また、道を切り開いて部族同士が交流しやすいようにし、病院を建てて病人を治療するとともに、数十台の救急車も寄贈しました。
当然のごとく、教会を建てる作業はいつも後回しにしましたが、それでも信徒たちのたゆみなき献身に心を開く人が増え、教会は徐々に定着していきました。