自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第57話
二〇一八年一月十八日のことを、私は忘れません。セネガルのダカールにあるアフドウ•デイウフ国際会議場において、「神アフリカI共生、共栄、共義と普遍的???」というテーマで、「アフリカサミット二〇一八」を開催したのです。セネガルのマッキー.サル大統領をはじめ、アフリカ中から元大統領や首相、現職の大臣や国会議員が私からの招請に応じ、一堂に会しました。アフリカ大陸の最北端から最南端に至るまで、アフリカ諸国を中心に、六十ヵ国以上から約千二百人が参加したのです。アフリカでそれほど多くの国の人々が集まったのは、大陸史上初めてのことでした。
韓国では真冬の寒さが猛威を振るい、国中の人々が凍える季節でしたが、アフリカは熱い日差しのもと、一日中蒸し暑い風が吹いていました。人々は、熱望していた真の母の来訪を喜び、私の手を握って涙を流しました。私の講演に続いて、アフリカで活発に展開しているセマウル運動と国際ハイウェイ、そして鮮鶴平和賞の紹介がありました。また、私の後援により、「世界平和国会議員連合(IAPP)」、「世界平和宗教人連合(IAPD)」、「世界平和族長連合(IATP)」も結成しました。
その日の晚、韓国の誇りであるリトルエンジェルスによる祝賀公演が開かれました。長鼓の踊りや太鼓の舞、扇の舞、「お嫁に行く日」、「アリラン」など、韓国の伝統舞踊や歌を披露するたびに、聴衆からは感嘆の声が漏れました。セネガルの国歌に続き、同国の国民的アーティストであるイスマエル•ローの名曲「デイビ•デイビ•レック」を清らかな歌声で歌う時には、聴衆はみな涙を流していました。声を上げて泣く人も少なくありませんでした。歌一つで、人々の心が一つになった瞬間でした。そうして、彼らはアフリカに新しい希望と喜びがもたらされたことに対して、深い感謝の意を表したのです。
翌日、私はゴレ島に発つ船に乗り込みました。悲しみと苦しみの大地だったアフリカを解放、解怨するためでした。ゴレ島の奴隸収容所は二階建てになっており、主人である白人は二階に住んでいました。一方、一階にはアフリカの至る所から捕らえられてきた黒人奴隸たちが、船で運ばれるまでの間、滞在していました。そこは現在、観光客のために補修がされていますが、腰を曲げなければ入ることができず、光もよく入ってこないため、土窟のように陰湿です。
ゴレ島を訪れる各国首脳や指導者のほとんどは、主に二階を見学して帰るのが慣例になっています。しかし、私は一階の「帰らざる扉」に手を当て、奴隸となった人たちの解怨のために切実な祈りを捧げました。共に参加していたゴレ島の区長をはじめ、多くの人々が共に痛哭しました。
既にこの世を去った霊魂を解怨するのは、生きている人の心ftを慰めることよりはるかに困難です。それは人類を救う使命を持った独り娘の切実な求めがあってこそ、できることなのです。私は沈黙する収容所の石壁と向かい合い、これまで誰も断ち切ることのできなかったアフリカの悲惨な抑圧の鎖を、永遠に断ち切りました。
その収容所の向かい側にある小さな広場には、聖母マリヤの像があります。そのそばの黄色い壁に、手のひらほどのネームプレIrがいくつか掛かっていました。島を訪れた世界の有名人たちの訪問を記念したプレ—卜でした。セネガル大統領と国民の申し出によって、私の名前が刻まれたプレートも付けられることになったのですが、その近くには、二〇一三年にここを訪れたアメリカのオバマ元大統領のプレートもありました。
セネガルの人々は、声をそろえて私に言いました。
「悲しみの大地、アフリカに温かな恵みを下さり、五百年間、背負ってきた苦痛を解怨してくださったことに深く感謝申し上げます」
「この小さなネIムフレートーつで恩恵のすべてに報いることはできませんが、私たちのための貴い足跡を永遠に記憶させてください」
本土に戻る船を待ちながら、私はふと気になって、島の住民に尋ねました。
「船は一日に何回来ますか?」
「朝に一度、午後に一度来ます」
「夜に体調を崩す人がいたら、どうするのですか?」
「夜通し我慢して、朝になってから本土に向かいます」
「病状が急変して、命が危ない状況になったら……?」
「それ^'大きな心配事です。ここには病院もなく医師もいません力ら・・・・・」
私は船を買ってあげることを約束し、救急用の船舶をゴレ島に寄贈しました。過去、数百年にわたって数え切れないほど多くの命が犠牲になったのに、ただ船がないという理由だけで、再び不幸な目に遭わせることはできませんでした。
アフリカは、まだ暗闇に沈んでいます。自然は美しく豊かですが、人々は不毛な土地に住んでいます。それでも、そこで暮らす人々は優しく穏やかで、まじめです。私はアフリカの人の瞳を見るたびに、美しい黒真珠を思い浮かべます。太陽の光を浴びてキラキラと輝く、丸くて小さな黒真珠。アフリカの人々は貧しい生活をしていますが、その瞳は、黒真珠のようにみな輝いているのです。彼らを見ながら、私は創造主、天の父母様の摂理を実感するのです。
真つ青な玄界灘の架け橋となって
「ここまで来るのに、大変だつたでしょう」
「来ること自体はそうでもありませんでしたが、飛行機のチケットを手に入れるのに苦労しました」
韓国で行事が開かれると、日本から多くの信徒が大挙して押し寄せます。私は彼らのことが心配で、いつもその状況を尋ねます。少ないときで三千人、多いときは六千人が、一日か二日の間に信仰の本郷の地である孝情天苑(京畿道加平郡所在)に集まるのです。仁川空港、金浦空港から来る人もいれば、中には釜山から入って、バスを乗り継いで孝情天苑まで来る信徒もいます。
日本の信徒にとって、信仰の祖国である韓国を訪問し、家庭連合の出発地である釜山のボムネッコル聖地をはじめ、青坡洞教会など各地に散らばっている聖地を巡礼して祈りを捧げることは、生涯にわたる栄光であり、願いなのです。数千人の信徒が信仰を抱いて韓国を訪れる様子は、あたかも巨大な波が迫ってくるかのようです。それはアジアの未来を変える光景でもあるのです。