自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第56話

第十章

神世界に向かう偉大な挑戦


ひどく悲しくも美しい地

「コレ島というので、ゴレ(韓国語で「クジラ」の意)がたくさん獲れる島かと思ったら、違うのですね」

韓国人は、「コレ島」と聞くと、クジラが獲れる島ではないか、捕鯨船がたくさん行き来する島ではないかと考えます。ゴレ島は、セネガルの首都、ダカールの沖に浮かぶ島です。もともと、一万キロ以上離れた韓国とは特別縁のない島でしたが、今では強い絆で結ばれるょうになりました。

翡翠色の海をかき分けて、旅客船がゴレ島に向かっています。私の周りに座った外国からの観光客たちは、素晴らしい景色に感嘆しながら、写真を撮るのに忙しくしていました。しかし、私の胸はしきりに痛んでいました。ゴレ島は美しい島でありながら、悲しみをたたえた島でもあります。そこに抑留されていた人々が流した痛恨の涙は、おそらく世界のすべての海を覆っても余りあるでしょう。

アフリカの西北部にあるセネガルは、大西洋に向かって飛び出ている地形のゆえに、アフリ力大陸の中では南北米大陸に最も近い所にあります。また、北のほうに少し航海すると、ヨーロッパに至ります。今でこそ、それは様々な面で良い条件となっていますが、まさにその哩由から、過去五百年間、あらゆる苦しみと迫害を味わってきた国です。

キリスト教宣教の名のもとに、ヨーロツバからアフリカに来た宣教師の中には、本質を見失い、自国の利益だけを考える人もいました。彼らはアフリカを植民地にしながら、教育を施すこともせず、天が与えた天然資源を奪い取ることにばかり忙しくしたのです。

その上、肌の色が違うといって、アフリカの人々を人間扱いせず、奴隸にしました。そのような行動をキリスト教宣教の名のもとに取ったという事実は、真の母として、非常に心痛いことです。ですから私は、ずっと前からゴレ島を訪ね、そこを通過していったアフリカの若者たちの怨恨を解かなければならないと考えていました。

一五〇〇年代当たりから、ヨーロツバの人々は群れをなしてアフリカにやって来て、至る所を引っかき回しながら、奴隸狩りを行いました。男性でも女性でも、子供でもお構いなしに捕まえてはゴレ島などの拠点に集め、アメリカ大陸やヨーロツバ大陸に送り出したのです。

奴隸にされた人々は、足に太い鎖をはめられて身動きが取れない状態で、太らせるために豆を無理やり食べさせられました。病気にかかればすぐに海に投げ入れられて、サメの餌にされました。

平和だったゴレ島はあっという間に奴隸収容所となり、悲鳴と涙、苦しみと死があふれる地獄の島になりました。特に奴隸狩りが猛威を振るった約三百年もの間に、ゴレ島を経由して連れていかれたアフリカの人々は二千万人を超えるとも言われます。その中でどれほど多くの人が海で命を失ったのか、誰にも分かりません。

細長い形をしたゴレ島は、今や世界中の人々が訪れる観光地となりました。過去の痛憤と苦しみは一見、消え去ってしまったかのようです。白人も黒人もみな、遺跡地を見物するだけで終わってしまいます。東に行っても西に行っても、二十分も歩けば海に行き当たる小さな島です。

小ぢんまりとした集落に足を踏み入れると、観光客は感嘆の声を上げます。

「道に石が敷いてあって、まるでヨーロッパの路地裏を歩いているようです」

「家も古風で美しいですね」

ヨーロッパの人々が暮らした家は美しく古風で趣がありますが、その裏を十歩奥に行くと、黒人を閉じ込めていた奴隸収容所があります。窓もほとんどなく、暗くて狭い、汚れた石造りの収容所。そこに数百人ずつが獣のようにつながれた後、見知らぬ土地に連れていかれたのです。海に向かって開けた石の門は、そこを通って船に乗ると二度と戻ってこられないことから、「帰らざる扉」と呼ばれていました。

その門の前に立っていると、アフリカの人々の悲鳴と痛哭が聞こえてくるようです。観光客は好奇心から収容所に入り、あちらこちらをのぞき込みます。たまに、ため息をついたり、顔をひどくしかめたりする人もいます。朱色に塗られた門の前で祈りを捧げる白人もいないわけではありませんが、その一度の祈りで、アフリカの人々が数百年間経験してきた悲嗲な思いや


鬱憤をすべて解放してあげることはできないでしょう。

誰かがその悲惨な思いや鬱憤を受け止め、かき抱いてあげなければなりませんでした。皮膚の色が違うという理由だけで、人が人を搾取し、自由を奪うという不幸な歴史を断ち切らなければなりませんでした。ですから私は、一万キロ以上を飛び、いまだ悲哀に満ちているアフリ力に足を踏み入れたのです。

黒真珠の涙、神様の懐に抱かれる

アフリカに行ってみると、赤色や黄土色の土がたくさん目に映ります。土が露わになった地面が広がっており、一日中風が吹いて砂が積もることで、町は赤色や黄土色に覆われています。また、「アフリカ」という言葉には「マザーランド」という意味がありますが、その言葉の持つィメージとは裏腹に、そこで暮らしている人々の日常は常に困難にさらされています。

ヨーロッパの人々は搾取ばかりして、アフリカにほとんど何も与えませんでした。神様を信じていながら、彼らを自分たちと同じ人間として扱わず、奴隸として連れていくばかりでした。アフリカの人々を慰めてくれる人はおらず、生きていく上で必要な助けを施してくれた人もそれほど多くはいませんでした。ましてや、救いのみ言を聞かせてくれる人など、ほとんどいなかったのです。


私が初めてアフリカの地を踏んだのは、一九七〇年頃のことです。その時できた心のしこりが、長い間、消えませんでした。宣教師たちを続けてアフリカに送りながら、教会を建てるのは後回しにして、小さいながらも学校を建て、診療所を造り、工場を建設したのも、アフリカの人々の暮らしをより良くするためでした。ただし、それらは今の空腹を免れさせても、彼らの心の中にある疑問を解くことはできませんでした。

アフリカの人々は、家庭連合の宣教師や牧会者をつかまえては、いつも尋ねました。

「なぜ私たちは、このように苦痛の中で生きなければならないのですか?」

「真の父母様は、いつ私たちに会いに来られますか?」

「真の父母様は本当に私たちを愛していらっしゃるのですか?アフリカに対する真の父母様のお考えは、どのようなものですか?」

彼らの切実な哀願は、海を越え、私の耳にも届きました。私はそのたびにアフリカに行きましたが、私を待つ人はあまりにも多く、国ごと、部族ごとに置かれた状況がみな違うため、同じ話をするわけにもいきませんでした。ある国では英語を使い、ある国ではフランス語を使います。また、ある国にはカトリックの信者が多く、ある国にはムスリムが多いため、顔の色は同じでも、お互いによそよそしくしているのです。部族間の紛争で十数年間、血を流す争いを繰り広げている国もありました。

私はどうすれば彼らの傷を癒やし、心を一つに束ねられるか、祈り求めました。そうする中で、アフリカのすべての政治指導者や部族長が一堂に会するようにしなければならないと思つたのです。

Luke Higuchi