自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第54話

その後、私はハデべ預言者と共に昼食を取りながら、会話を交わしました。これまでハデべ預言者が、霊的な啓示を受けたり、深刻に精誠を捧げたりするとき、いつも一人で籠もっていた山があるといいます。私が到着した十二月五日は、彼自身にとって霊的に非常に重要な日であるため、毎年この時期になると山に登り、精誠を捧げているとのことでした。

十二月五日というのは、南アフリカはもちろん、アフリカ全土で最も尊敬される人物の一人であるネルソン•マンデラ元大統領が逝去した日なのですが、ハデべ預言者がマンデラ元大統領の逝去を公に預言していたため、周囲を驚かせた日でもあるのです。

また、霊に憑かれたある少年が、天から来た異言を通して、「南アフリカを解放する指導者はハデべである」と証しをし、獅子の牙を体内から吐き出して彼に贈呈した歴史的な日だそう


です。この霊的なエピソードは、南アフリカで伝説のように伝えられている、非常に有名な話です。そのため、ハデべ預言者は毎年この日になると、自分に与えられた天の召命について感謝するとともに、山に登って決意を固め、誓いを捧げてきたそうです。

このような日に真の母が訪れたので非常に縁起が良いといって、彼は本来、山にいるべきところを、私に侍るためにしばしの間、山から下りてきたのです。昼食後、彼は再び山に登り、十二月七日に行われる行事のために、死生決断の精誠を捧げるとのことでした。

そのような彼に、私は温かい韓国の麵料理、チヤンチグクスを昼食として用意しました。御飯は愛です。天倫によって結ばれた母子間の愛を、私はチヤンチグクスを通して伝えたのです。

その年の夏、文総裁の聖和七周年記念行事に参加するためにハデべ預言者が韓国を訪れた際、発旺山の頂上で、行事のための特別精誠を捧げたことがありました。その時、私が彼と義兄弟として結んであげた家庭連合世界本部の尹焕鎬事務総長が、箸の使い方を教えたのですが、彼はもう箸を使って、チヤンチグクスを上手に食べられるようになっていました。韓国文化に対するハデべ預言者のこのような姿勢は、独り娘、真の母に対する愛と尊敬の、もう一つの表現でした。

摂理の春、私と共にいる時が黄金期


深い森の中に、小道があります。人一人が何とか通れるくらいの道です。最初にここを通った人は、手で木の枝を払いのけ、手に擦り傷を作りながら、額に汗を浮かべて通ったことでしょう。そういう人のおかげで徐々に道ができ、後ろの人たちは楽に行くことができるのです。私たちはその最初の人の苦労に深く感謝しながら、道をより広く、平坦にしていかなければなりません。

しかし、森に小道を造るよりも、人と人との間に道をつくるほうが、さらに難しいことです。木やとげの生えた藪とは違い、人には自身の意思があります。その意思に反していることには、心を開こうとしないのです。

私は生涯、人々が互いに心を開き、一家族になるようにするため、汗と涙を流しました。誰も行かない道を開拓し、最も険しい所に立って、世界の人々を抱きました。誰もが逃げ出したいと思うような状況の中で、人類の救いと世界平和のために、黙々と真の愛を実践してきたのです。私を非難した怨讐までも許し、包み込んで、感動の涙を流させました。

今や、私たちは摂理の春を迎えています。一年の始まりとなる春は、農家にとって最も忙しい季節です。未来の豊かな収穫のために、最善を尽くさなければならないからです。摂理の春を迎えた天一国の民は、本来神様が実現しようとされた本然の世界を建設するため、責任を果たさなければなりません。自分の氏族に責任を持ち、国家的な基盤においてメシヤの責任を果たさなければなりません。そのような天命があるのです。


困難でつらくても、摂理を終結させ、真実を明らかにしなければなりません。ひまわりのように真っすぐな姿勢で、私たちに与えられた責任を果たすならば、神様の夢、人類の願いは必ず成し遂げられます。問題は、真の母である私が地上にいる間に、その結果を神様に奉献できるかどうかです。それができてこそ、後孫に向かって、未来の人類に向かって、誇れる自分になるのです。このような時というのは、いつでも訪れるわけではありません。一人の人間にとって、独り娘である私と共に生きるこの時間は、その年齢を問わず、黄金期なのです。黄金期を逃してはいけません。

また、同じ時代に生きながら、真の父母が来たことも知らず、天の祝福と恩賜があることも知らないまま生きる人がいないようにしなければなりません。世界万民が、真の父母と共にこの時代を生きていることに感謝し、天に侍る立場で生きるように導かなければなりません。

私たちは、地上天国で生活してこそ、天上天国に行くことができます。したがって、私たちの目標も、私たちの行く先も一つです。それは、神様の前に誇らしい息子、娘として進み出る道です。神様が、「御苦労だった。我が息子、娘よ!」と言って抱き締めることのできる生活をしなければなりません。私と共に地上生活をしている今この時が、まさに黄金期であるという事実を、心から悟らなければなりません。

私の生活哲学は、「ために生きる」です。どこに行くにしても、他のために生きようとして


行くのです。世間一般の父母の愛よりも、兄弟の友愛よりも、さらに大きな愛を与えるため、茨の道を歩いてきました。

人間は、良いものがあれば自分のものとし、他の人にはそれよりも劣つたものを与えがちです。挙げ句の果てには、自分の父母に対しても、同じようにするのです。自分の利益だけを追求すれば、欲望の縄目に掛かってしまいます。他の人を前に立て、ために生きる生活をすれば、それが永遠の祝福と_由を得る近道となるのです。

私は困窮している人を見ると、自分が持っているものを与えずにはいられません。結婚指輪すら、手元にはもうありません。皆が良いものを他の人に与えることができれば、喜びの世界となります。これが私の生活哲学です。自分のためだけに生きる人は、すぐ壁にぶつかります。ですから、他の人のために与え、愛を持って生きなければなりません。

世の中の多くの人は、家庭連合が金持ちであると早合点しています。文総裁と私に対しても、お金がたくさんあるだろうと思っているのです。しかし私たち夫婦は、自分名義の家を持つたことすらありません。すべて、世のために使いました。私たち夫婦ほど、自身に対して徹底的にケチな人はいないでしょう。雨が降れば、異国の地で軒下に身を寄せて夜を明かしている宣教師たちのことが思われるのに、どうして私たちがおいしい御飯を食べ、安らかに眠ることができるでしょうか。

信徒たちの献金はすべて、学校を建てるなど、貧しい人々のために使いました。様々な企業


をつくったのも国を豊かにし、人々の働き口をつくるためであって、そのお金を所有しようという考えは、元からありませんでした。いくらおなかが空いていても、私以上におなかを空かしている人々がいるのだから、その人たちのことを思って我慢してきました。み旨の道を歩みながらも、所有欲を持っている人は、父母の肉をえぐり、父母の骨を削って生きる者です。私たちは天の前に負債を負ってはいけません。

私はいつも、愛を生活の中心に据えました。人生は、いつ終わるか分からないマラソンを走るようなものです。それを走り切るための力は、お金でもなく、名誉や権力でもありません。偉大な愛の力です。赤ん坊が泣けば、母親はどんなに疲れていても無条件にお乳を与えますが、そんな無私の愛こそ、最も偉大な愛です。人はなぜ生まれ、なぜ生き、どこへ行くべきかという問題も、すべて愛を中心として、考えなければなりません。

神様の心情を考えれば、自分が受ける試練や苦痛は、あまりにも軽いと思うことができなければなりません。神様の前で自分のことを弁明する資格などありません。困難にぶつかればぶつかるほど、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしなければなりません。生まれたのも、®分の意志で生まれたわけではないのです。神様のみ意によって与えられた人生を、価値あるものとして、忠実に、美しく生きなければなりません。子女や家族のため、妻や夫のため、全人類のため、全世界のために生きている、という思いを持ってこそ、自分自身が幸福になれるのです。

私たちにとって最も近い師は、自分の心(良心)です。困難にぶつかったり、困惑するよう


なことが起こったら、心に尋ねてみればよいのです。その心の中には、私たちを愛してくださる神様がいらっしゃいます。その本当の声を聞くことができなければなりません。心の中にいらっしゃる神様の声を聞くことができなければならないのです。自分を磨き続け、心がささやく声、神様が聞かせてくださる声を聞くことができる位置まで、進まなければなりません。

心は永遠なる、私の主人です。祈れば神様が必ずかなえてくださるという信念を持たなければなりません。心からの祈りは、神様とつながる確かな道なのです。真の祈りを捧げれば、最も困難な状況においても、天の父母様と真の父母の恩寵を受けられます。その恩寵のみ手に従って、天の国に向かって自由に、幸福な気持ちで上がることができるのです。

Luke Higuchi