自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第53話

長男の孝進は音楽が好きでした。今日、家庭連合の信徒の中に音楽をたしなむ青年たちが多いのは、孝進の影響が少なくありません。

長男らしく、彼は子供の頃から口癖のように言っていました。

「孝子という言葉は、僕のものだ!」

しかし、母親に対して心穏やかでなかったこともあるでしょう。友達の母親に比べて、持っているものが乏しくて質素に見え、なおかつ、いつも忙しくしていたからです。それでも彼は、そんな母親である私を慰めようと、大声で宣言していました。

「母さん!僕が大きくなったら、母さんに何でもしてあげるよ!」

一九七〇年代の初め、私たち夫婦がアメリカで活動を始めた頃は、どこに行っても東洋人は無視されていました。韓国人も日本人も関係なく、一様に「チャィニ}ズ」と呼ばれていた時です。文総裁はその時代に五十州を巡回し、講演をしました。私たちに共感する人もたくさんいましたが、嘲笑する人も多くいました。

孝進は父母の後をついて回りながら、その一部始終を見ていました。共産主義者などが父親の講演する先々に現れては脅してくる姿を見て、わずか十二歳であったにもかかわらず、「父


さんを守るために、僕があいつらと闘う」と言って向かっていこうとするのでした。

そのような中で、世の人々がみ言を受け入れられるように導くには、努力と時間が必要であることに気づいた彼は、「旋風を巻き起こして、効果的に伝える方法はないだろうか?」と考え続けました。

「まさにこれだ!」

彼が見つけて膝をたたいたのが、ロックでした。そうして、音楽によって人の心を変え、教会に導かなければならないと決心した孝進は、三年間で一万曲を作ったのです。一日に十曲近く創作するというのは、普通の人にとってみれば不可能に近いことです。それを三年間、絶えず継続するというのは、さらに難しいことです。

孝進は自分の体を顧みず、日夜、創作に没頭しました。それが父母を喜ばせることのできる孝情の精神であり、世の中のために自分が果たすべき使命だと感じたのです。その多くの歌の中で、信徒たちに最も愛されたのは「汽笛」です。

あなたの願われる自分を見つけよう

高鳴るこの胸は、あなたのために走る汽笛なのさ

歌に感銘を受ける人が増え、信徒も増えていくにつれ、サタンの焦りも大きくなったことで


しよう。

 

孝進は音楽に没頭し、昼夜を問わず作詞作曲をして、歌を歌うことに明け暮れましたが、二〇〇七年に韓国や日本で行ったコンサートが、生前最後の公演となりました。公演や連日の創作活動による過労で、二〇〇八年、天の国に向かったのです。

家庭連合の信徒たちは、音楽によって人々を神様の元に導こうとした孝進に、いつも感謝しています。孝進の火花を散らすような熱い音楽は、父と母のための孝情の表れでした。その孝情の精神を受け継ぐため、毎年秋、文総裁を追慕する聖和祝祭が開かれる時に合わせて、孝進を傯ぶ「孝情ミユージックフエスティバル」も一緒に開催されています。

父母のために自分は何をするか悩み抜き、その道を勇敢に進んでいく人が孝子です。そのような孝子は、常に侍る精神を持って人々に接するので、どこに行っても歓迎を受け、必ずや志を果たします。自分ではなく、他のすべての人に侍る「孝情」は、だから偉大なのです。

私は文総裁の聖和四周年の時、孝情の美しい種を世に蒔きました。韓国の伝統的な侍墓精誠の期間である三年が過ぎ、文総裁の追慕祭はそれまでとは違う形で開かれるようになりました。悲しみを乗り越え、新たな希望と平和を切り開く祝祭の場となったのです。二〇一六年八月、「天に対する孝情、世の光に」をテーマとして宣布し、掲げた追慕祭は、地球の至る所に愛の手を伸ばしていく喜びの場となりました。


追慕祭では、真の父母の足跡を振り返る一方で、多彩な文化公演も行われました。「御飯は愛である」をモット}に、「和合統ービビンパ分かち合い大祝祭」の時間も持ちました。大きな釜に御飯と選りすぐりの食材をたっぶり入れてビビンパを作り、信徒たちで和気あいあいと分け合って食べるのです。私も大きなしやもじを持って一緒に御飯を混ぜながら、世界人類が一家族として和合することを念願しました。

また、エンターティンメントだけでなく、様々なプログラムも行われました。一力月以上にわたって講演やセミナー、各種行事が国内外で開かれ、私たちの進むべき方向性を模索する貴重な時間を持ったのです。

夫が聖和した日、「草創期の教会に返り、神霊と真理によって教会を復興させます」と約束したことを、私は今も胸深く刻みつけています。妻として夫を慕う思いが決して消えないのと同じように、私の胸には孝進と興進の孝情が息づいています。その孝情が人々に伝わり、皆が他のために生き、侍りながら生活していくならば、そこが真の天国になるのです。

孝は、人間にとって何よりも重要な実践徳目であり、人生における永遠の柱です。親孝行は、父母が生きている時にしなければなりません。父母が旅立ってしまった後に、いくら親孝行するといってあがいても、遅いのです。今この瞬間がどれほど貴く、誇らしいかを知らなければなりません。このように崇高な価値を新たに発現させた孝情の光は、韓国から出発してアジアを越え、世界を照らす光として輝いています。


母の時間、御飯は愛である

聖婚直後、夫と向かい合って食べた初めての食膳、「水刺床」(韓国語で「王と王妃の平常時の食膳」の意)が、銀色に光るススキ野原のように、ほのかに思い出されます。ぼたん雪のような大粒の涙が、今にもこぼれそうになっている夫の瞳。そこには、神様のあふれる心情がそのままたたえられていました。

人類のために生きる真の父母の道を歩みながら、私たち夫婦は数多くの食膳を共にしましたが、その食事の目的はいつも同じでした。神様の前に孝情の道理を果たし、人類の救いと平和世界を成し遂げるためです。ですから、切迫した雰囲気の中で信徒と共に歩んだ三年の開拓伝道の間、ずっと麦だけで炊いた御飯を食べて過ごした時も、一日に二ヵ国以上をせわしなく巡回しながら、一口の水で喉を潤すだけで過ごした時も、夫と私は何の心配もせず、すべてを感謝と喜びで受け止めました。

毎年、私たちの誕生日を記念して祝福家庭をはじめ、多くの人を迎え、「水刺床(孝情宴)分かち合い祝祭」を開催するのは、どれほどうれしく、楽しいことか分かりません。祝福家庭は、真の父母が熱い涙を流す中、懐で生み変えた、天の血統を持つ真の子女です。天が立てた選民です。ですから、私は彼らを、「選民祝福家庭」と呼ぶのです。天上の夫、そして私は、


永遠にこの選民祝福家庭を愛するでしょう。何より、み旨のために孤軍奮闘してきた多くの子女の熱い涙と汗を、一時も忘れることはありません。

この祝祭では、参加者にお弁当を配り、共に食事を楽しむのですが、実のところ、私はこのィベントに関して、非常に残念な思いもあるのです。本来なら、愛する子女一人一人に、ゆらゆらと湯気の立つ温かい御飯を直接与えたいという切なる思いを禁じ得ないからです。

二〇一九年十二月、私は「大陸復帰」宣布の礎となる南アフリカでの二十万人の祝福式(祝福結婚式)を行うため、ヨハネスブルグに向かいました。

FNBスタジアムで開催されるアフリカ大陸レベルの祝福式(十二月七日)は、国家の復帰を宣布する段階を越え、大陸の復帰を宣布する驚くべき時代を開く歴史的行事でした。

降りしきる雨をかき分けて飛行機が滑走路に着陸します。空港に降り立ち、ラウンジに入ると、とても会いたかった人物が笑顔で立っていました。私の息子となったサミュエル•ハデべ預言者が、明るい笑みを浮かべながら、真っ赤な花束を持って迎えてくれたのです。

彼は私を見ると、まるで生き別れた母に出会えたかのように、「お母様!お会いしたかったです。お母様の家、南アフリカに来られたことを歓迎します」と挨格して、真心を込めて準備した花束を手渡してくれました。

ハデべ預言者と共に、彼の南アフリカ黙示録教会(神の啓示教会)の青年学生たちが南アフ


リカの伝統衣装を身にまとい、尊敬と謙遜の意を表して頭を下げながら、歓迎してくれました。続いて、ラウンジで華やかな歓迎公演が行われました。青年学生による公演チームは、「南アフリカを祝福するため、アフリカ全土を祝福するために、きょう、真のお母様が来られました」という意味の歌詞を付けた素敵な歌をアカペラで歌い、特別なパフォーマンスを披露してくれました。

「雨が降り続く中、到着しましたが、南アフリカやアフリカ大陸において、雨はとても貴い祝福であると聞きました」

私が挨拶すると、ハデべ預言者をはじめ、リーダーや信徒たちの大きな歓声が起こりました。

Luke Higuchi