自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第52話
悪とは、自分が利益を得ることを目的にして与えることであり、善とは、与えて忘れてしまうことです。真の愛は、与えて、それを忘れてしまうとき、花咲きます。愛は与えれば与えるほど、減るのではなく、永遠に枯れることなく湧き続ける泉の水のように、さらに豊かになっていきます。愛の道では、本当に良いものを与えたとしても、不足さを感じるものです。良いものを与えても、それを誇りに思うのではなく、もっと良いものをあけることができなかったといって申し訳なさを感じるのが、真の愛です。
愛が円形に回るようになれば、終わることがありません。終わりを感じるような愛は、愛ではないのです。真の愛は永遠であり、不変です。いくら時代が変わり、環境が変わっても、真の愛は変わりません。真の愛は、誰もが願います。千年、万年経っても、真の愛は嫌になりません。真の愛は永遠の愛なので、春も真の愛、夏も真の愛、秋も真の愛、冬も真の愛を願います。幼少の頃も真の愛、大人になっても真の愛、年老いても真の愛を願うのです。
愛する人に出会えば、永遠に花を咲かせたいと思います。特に男女の愛には、男性と女性を一つにする力があります。お互いが完全に愛し合うということは、相手が自分の中におり、自分が相手の中にいるということです。人間が求めるものの中で、最も貴いのが愛です。人はみな、貴い物、貴い人、貴い愛を求めて生きていくのです。真の愛を抱けば、いかなる悲しみと苦痛も、喜びに昇華します。
他のものはすべて、与えればなくなってしまいますが、愛は与えれば与えるほど、より多く返ってきます。愛を受けようとする思いが、愛を与えようとする思いに変わるとき、平和な世界が訪れるのです。
天に対する孝情、世の光に
私は時々、江原道平昌郡にある発旺山に登ります。標高千四百五十八メートルの山の麓には、リゾ—卜地としてよく知られている「龍平リゾート」があります。国民的ドラマとして人気を博した「冬のソナタ」のロケ地にもなった所です。
山頂に登ると、世界に一つしかない珍しい生え方をした木があります。全く別の二種類の木が一体となり、まるで一本の木のように生えているのです。樹齢数百年にもなるエソノコリンゴの木が母親で、それに抱かれるようにして育ったナナカマドの木は息子です。お互い支え合いながら仲良く生きるこの母子の木を、私は「マユモク」(「世界で唯一のナナカマド」の意)と名付けました。
この嚴理木は、古木となったエゾノコリンゴの木の中が空洞になり、そこに鳥が落としていったナナカマドの種が発芽し、根を張ってできたものです。エゾノコリンゴの木は、まるで赤ん坊を育てるようにナナカマドの木に栄養分を与え、自らの懐で少しずつ育てていきました。
ナナカマドの木は次第に大きくなりながら深く根を下ろし、まるで母親を養うように、エゾノコリンゴの木を支えて共生しています。空洞部分では、二種類の木がそれぞれ花を咲かせ、実を結ぶようになりました。植物ではありますが、まるで母子の間で交わされる美しい愛と思いやり、深い情が表現されているようで、これ以上ない孝情のモデルとなっています。
「孝情」という言葉に初めて接する人は、ほとんどが首をかしげます。何となく分かりそうであっても、その意味を正確に述べることは容易ではないからです。
「真心を込めて親孝行するという意味でしょうか?それとも親孝行の気持ちという意味ですか?」
ある人は、こう尋ねたりもします。
「もしかして、このヒョデョンというのは、效情のことですか?」
「效情」とは、韓国の言葉で「真の情を尽くす」という意味なので、それほど間違った解釈ではありません。しかし、私が初めて使った「孝情」という言葉は、それよりもさらに深くて広
い意味を持っています。
「孝」は、東洋にだけある言葉です。強いて英語で言うならば、「フィリアルデューティ(Fialduty)」です。しかし、これでは「父母に対して果たすべき子供の義務」という意味になるので、孝の深い意味を表現していることにはなりません。孝を義務としてのみ感じるのならば、心からにじみ出る思いで父母を敬うことはできないし、愛することもできません。孝は韓国の美しい伝統であり、生きていく上での根幹です。これほど重要で価値のある孝が近年、徐々に色あせてきているのは、誰にとっても心痛いことに違いありません。
孝情を考えるとき、私はいつも、胸の奥深くに宿っている長男の孝進と次男の興進のことを
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先に霊界に旅立ったのは興進でした。冷戦真っただ中の時代に、父親を守るため、まだ幼いながらも勇敢に先頭に立った息子でした。私たち夫婦が韓国全土を回りながら勝共決起大会をしていた頃、共産主義の信奉者たちが殺害予告をして脅してくるということがあったのですが、そんな時は、興進がいつも腕をまくりながら言うのです。
「父さんは僕が守ります」
韓国で行った全国勝共決起大会の最終日、光州で文総裁が講演をするために演壇に上がろうとした時、着けていたはずのネクタイピンがなくなっていることに気がつきました。私は不思議に思いました。
「どこに行ったのだろう?いつなくなったのだろう?」
その時、太平洋を越え、アメリカのニユーョークにいた興進が交通事故に遭ったのです。ちょうど、文総裁が光州で壇上に上がり、講演を行っていた時刻でした。興進の運転する車の前方から、大型トレーラーが横滑りしながら迫ってきたのです。衝突の刹那まで、興進はハンドルを回し続けましたが、トレーラーを避け切ることはできませんでした。
ところで、普通は左ハンドルの車で右車線を走っていて、前からトレーラーが道を塞いで迫ってくれば、反射的にハンドルを左に切り、自分の座っている側が正面衝突するのを避けるはずです。しかし、事故後に地面に残ったタイヤの跡を調べてみたところ、興進の車はハンドルを右に切っていたことが分かりました。彼は助手席に座っていた後輩を助けるために、あえてハンドルを右に切り、天の国に昇っていったのです。
あとで明らかになったことですが、文総裁に危害を加えょうとする人々が、聴衆を装って光州の会場に入ってきていました。しかし、舞台のある前方に向かおうとした彼らは、立錐の余地もなく詰めかけた観衆の中に入っていけず、計画が水泡に帰していたのです。
文総裁を標的としていたサタンは、その期待が外れるや否や、代わりに興進を狙いました。興進は、「父さんは僕が守ります」と言った約束のとおり、犠牲の供えものとなったのです。
興進が生まれた時、彼が生後三日目になるまでなかなか目を開けなかったため、とても心配したのですが、「最後、父母に最も大きな孝行をして逝ったのだ」と私は思いました。その深い孝情を、家庭連合の信徒たちは余すことなく胸に刻んでいます。