自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第51話
第九章
神の国は私たちの中にあります
一番大事な教えとは何でしょうか
世の中にはたくさんの教えがあります。家庭では父母が子供たちに言い聞かせる教えがあり、学校では先生からの指導があります。物事の理を究明する科学や、貧困から抜け出せるように導く経済学もあります。また、社会に出れば、先輩が職場生活における正しい姿勢を教えてくれます。それらの教えはどれも重要であり、人生をより明るく、知恵深いものにしてくれます0知識と知恵は、私たちがいつまでも追い求めるべき大切な価値です。
それではあらゆる教えの中で一番大寧な教えとは何でしょうか?
それは宗教が説く教えです。宗教の「宗」の字は、「おおもと」、「中心」を意味します。すなわち宗教の教えとは、あらゆる教育と真理の中で、一番の教えだということです。
孔子、釈迦、イエス、ムハンマドをはじめとする多くの開祖たちの教えは、時代を超えて人間の良心を守り、文明を導く原動力となりました。したがってすベての宗教は、罪悪世界を清算して神様と人間が願う理想世界をつくる、人生のパートナーなのです。
今日まで、利己主義が一般的なものになっているのは、胸の痛い現実です。科学技術の発展により、生活水準は上がっていますが、人々は日増しに利己主義になり、自分の国や社会、ひいては家庭に対しても責任を持とうとしません。
離婚率が日々上昇しているというのは、夫婦がお互い結婚に対して責任を持とうとしていない証拠です。父母が子女に対して相応の責任を果たそうとせず、子女は父母を見捨て、ひたすら自分の欲望と欲心のみを満たそうとしているのです。御自身の子女として倉造した人間のこのような姿を御覧になりながら、神様はどれほど胸を痛めていらっしやるでしょうか。
今日まで、世界中で多くの宗教が登場してきました。果たしてこれらの宗教は、私たちに何を教えてきたのでしょうか。すべての宗教は、まず神様について、正しく教えなければなりません。その.際、神様の存在を知らせるのも大切ですが、神様と人類との関係を明らかにすることが何よりも重要です。神様がいらっしやるとすればどのような方なのか、神様の愛はどのようなものなのかを一つ一つ教えてくれる宗教が、真の宗教です。
私は五大洋六大州を巡り、数百キロ、数千キロを移動しながら、地の果てまでみ言を伝えるために尽力しています。そうして行く先々で、神様が準備された義人に出会っています。神様はどれほど困難な状況にあっても、義人を探し求めてこられました。
聖書に出てくるソドムとゴモラは、倫理が失われた、淫乱の都市でした。神様は最初、そこに正しい者が五十人いたら滅ぼさないと言われました。それに対してアブラハムが、少しずつ人数を少なくしながらお願いし、最後に「十人いたら滅ぼさない」という言葉を引き出したのです。しかし結局、神様のみ意にかなう義人がいなかったため、ソドムとゴモラは天から下っ
た炎で焼かれてしまったのです。生き残ったのは、ロトとその娘たちだけでした。
神様は、私が行く先々で、多くの義人を準備してくださっていました。国と民族を超え、どこに行こうと、義人が待っていたのです。ですから私は、信徒に対しても、天が準備した義人を探しなさいと話しています。
二〇一八年十一月、私は黒人と白人の人種差別問題で凄絶な痛みを経験した南アフリカ共和国に行きました。その国は、二十数年前に私の入国を許可しなかったことがあるのですが、今や国を挙げて歓迎してくれるようになったのです。私はその苦しみの大地で、アフリカサミッ卜と三千組の祝福結婚式を主宰しました。六十ヵ国以上から約一千人の:>1?が参加したアフリカサミットでは、アフリカに平和を定着させ、より豊かにしていくために、私の提示した案を推進することを決議しました。
このサミットには、南アフリカで初の黒人大統領となったネルソン•マンデラ元大統領の誕生百周年を記念して、彼が残した民主主義の遺産を心に刻みつけるという趣旨もありました。国会議員であり、ネルソン.マンデラの孫に当たるマンドラ.マンデラ氏は、心から湧き出るような雄弁を通して私を証しし、聴衆から大きな拍手を浴びました。
「神アフリカプロジェクトを通して新しい希望とビジョンを下さった韓鶴子総裁は、私の祖父のように、この時代における平和のアィコンです。韓鶴子総裁と共に、マンデラ大統領の遺業を引き継ぐアフリカにならなければなりません」
続いて開かれた祝福結婚式には、二十ヵ国以上から約三千組が参加し、私を真の母、人類を救う独り娘として受け入れました。「あとの者は先になる」(マタイによる福音書一九章三〇節)という聖句のように、南アフリカやジンバブエ、セネガル、そしてアジアのネパールは、これまで恵まれない、曲折の多い痛みの歴史を経てきた国々ですが、独り娘を信じることによって'今や輝かしい光を発しているのです。
インドの詩聖タゴールは、韓国を称える美しい詩を書きました。当時の韓国は、日本の統治下で苦しみの日々を過ごしており、地球のどこにあるのかさえ、あまり知られていない国でした。それにもかかわらず、タゴールは「コリア、その灯火が再び明かりを照らす日に、あなたは東方の明るい光となるだろう」と予言したのです〇光とは、真のみ言■、新たな真理のみ言を意味しています。彼は、韓国で真のみ言が登場し、人類の灯火になって世界を照らすだろうと予言したのです。
私はその真理の灯火である新しいみ言、「統一原理」で全世界を照らすために、東奔西走しています。土を耕して畑とした今、あとは種を蒔き、深く根を下ろす作業が残っています。その大切な仕事を果たすため、私たち皆が先頭に立たなければなりません。
今や全人類が、真の父母を待ち望んでいます。誰もが、真の父母の愛と生命、血統を受け継いだ、真の息子、娘にならなければなりません。そうしてこそ、真の幸福と永生の門が開かれるのです。
真の愛の人とは「自分がない人」です
夫は私のことを、「自分がない人」だと言いました。「タンスが空っぽになるまで分け与える」と言われることもありました。私はどんなものでも、ただ後生大事に保管し、取っておくということができません。み旨のために昼夜なく苦労している信徒を見ると、いつもいたたまれない気持ちになり、何もかも与えてしまわずにはいられないのです。
青坡洞教会や漢南洞の公館にいた時も、京畿道加平郡にいる今でも、宣教師や客人が訪ねてくると、タンスを開けて服や靴をあげてしまいます。夫の服やネクタイもみな、新しい持ち主となる人の元に行きました。苦労している信徒を見れば、小さなものでも渡して送り出すことで、気が休まるのです。
アフリカや南米の貧しい町に行ったときは、いくら忙しくても、孤児院や貧困で苦しむ人々を訪ねるょうにしていました。スケジユールがあまりにも押していて立ち寄ることができないときは、心からにじみ出てくる真の愛の表現として、「国際救護親善財団」や奉仕団体を通じた支援、多くの奨学金支援などを行ってきました。困難な状況を目にすれば、決してそのまま通り過ぎることができなかったのです。
「生命が先でしょうか、愛が先でしょうか?」
こう尋ねれば、ほとんどの人は「生命が先だ」と答えます。「生命があってこそ愛することもできますから」というのです。
しかし、本当は愛が先です。あらゆる存在の出発点は、生命です。しかしその生命は、愛によって宿ったものです。ですから、生命よりも愛が先なのです。私たちの心と体は、父母から出てきました。父親と母親の愛がなかったならば、私たちはこの世に存在していません。ですから、命を捨てることはあつたとしても、愛を捨ててはならないのです。
人間は愛によって生まれ、愛の道を歩み、愛のために死ななければなりません。しかし、瞬間的な愛、条件的な愛に溺れてはいけません。永遠で純粋な愛を持たなければなりません。
私たちに必要な愛とは、絶対的な愛であり、真の愛です。真の愛とは、ために生きる愛、すなわち仕えてもらうことを願うのではなく、他者に仕える愛です。
また、真の愛は絶えず許す愛です。イエス様は、「七たびを七十倍するまで」(マタイによる福音書一八章ニニ節)許しなさいと言い、十字架上で自分に槍を向けるローマ兵士を前にしても、「彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書二三章三四節)と祈られたのです。
夫の文総裁も、日本統治時代に京畿道警察部で刑事からひどい拷問を受けたことがあるにもかかわらず、日本人刑事の命を助けました。一九四五年に韓国が解放を迎えた後、刑事たちは
すぐに日本に撤退できずに隠れていたのですが、韓国人に捕まれば、殺されるしかない立場に置かれていました。そのような刑事たちを、夫は夜のうちに密航船に乗せ、逃がしたのです。怨讐と言える相手を許し、逃がすというのは、簡単にできることではありません。既に心からすべてを許し、怨警の顔を見ながら、そこに神様の顔を見いだそうという努力をしていない限り、実行できないことです。怨讐を怨讐として考えず、むしろその人のために祈り、許すこと。これは、「自分がない生活」をしていてこそ、可能なことなのです。