自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第41話
愛は国境を超えます
「多文化家庭(国際結婚をした家庭)はますます増えているのに、生活はみな楽ではないようです」
すぐに、隣の人がさらに胸の痛む話をします。
「中には家庭の経済状況が厳しく、学校に通えない子供もいます」
「それだけではありません。韓国に嫁いできた外国人妻が、文化に馴染めず、自分の国に帰って_^まうことも^なくないようです」
世の中の様子についてあれこれ話を交わしていると、しばしば多文化家庭の苦しみについて教えてくれる人がいます。深い事情を聞かなくても、私には彼らの痛みがよく分かります。一九七〇年代の初めにアメリカに渡り、宣教生活を送った私もまた、少数民族に対する差別とその悲しみを十分に体験しました。多民族国家であるアメリカでさえそうだったのに、長い間、単一民族国家であると自負してきた韓国では、言わずもがな、でしょう。
今や韓国の地方の農村はもちろん、都市でも多文化家庭が増えています。一般的に、多文化家庭は夫が韓国人、妻が発展途上国などからお嫁に来た女性、という構成になっています。はるか遠い異国の地から嫁いできた女性たちが、言語も生活習慣も違う見知らぬ土地に定着することは、容易ではありません。多文化家庭を見つめる視線には無意識のうちに差別が含まれていることもあり、彼らは言葉にできない悲しみを少なからず経験しています。
その苦しみと悲しみは、私が経験したこととあまり違いはないでしょう。ですから私は、韓国に定着した異国の女性たちがみな幸せな家庭を築いていけるよう、支援を惜しまなかったのです。その支援は、国境を超えた祝福結婚式が行われた一九六〇年代末から行われています。
韓国で多文化家庭が急激に増えたのは、オリンピックが開かれた一九八八年に行われた六千五百組の祝福結婚式の時で、多くの韓日.日韓国際家庭が誕生しました。
韓国では既にその時から、農村に住む男性と結婚しようという女性があまりおらず、社会問題になっていました。しかし、韓国内では民族感情が非常に高まり、排斥的になっていた時期だつたので、日本人を嫁や婿として迎え入れるのは非常に困難なことでした。同様に日本でも、子供を経済的な発展が遅れている韓国の男性や女性と結婚させようとする親は、あまりいませんでした。
しかし、絶対信仰と絶対愛、絶対服従を信条とする統一教会の日本女性たちが大勢、韓国の農村の家に嫁ぎ、献身的に尽くしながら暮らしました。日本だけでなくフィリピンやベトナム、タイなど様々な国の女性信徒が韓国に来て、家庭を築いたのです。
彼女たちは義父母に真心で侍り、子女をたくさん生んで、幸せな家庭を築きました。中には、苦しい生活をしながらも病気の老親に尽くし、孝婦賞をもらった者もいれば、障がいのある夫に付き添いながら、村の婦女会長や学校の父母会長を務めて農村を引っ張っている者もいます。今では韓国の農村、漁村になくてはならない、重要な役割を果たしているのです。
私たち夫婦は、韓国で生活をする国際家庭の婦人たちに韓国語を学ぶ場を提供しながら、すべきことが本当に多いことを知り、二〇一〇年、「多文化総合福祉センター」を設立しました。韓国社会へ.の適応に苦労している異国の女性たちが、故郷にいるかのように心安らかに生活で
きるよう、サポ^・・・・・^するためです。さらにもう一歩進んで、障がい者や一人親家庭も支援して
います。また、様々な事情で学校に通えない青少年たちが夢を持って勉強できるよう、「真の愛平和学校」も運営しています。
時々、一部の薫人や地位の高い人々の子息の軍入隊忌避に関するニユ—スを耳にしますが、一方で、二〇二五年には韓国軍が「多文化軍隊」になるだろうという見解が出ています。
これまでに、国際祝福結婚をした家庭の子女で、既に兵役義務を果たしたか、あるいは現在果たしている人の数が、いつの間にか四千人を超えました。多文化家庭の子女には二重国籍が与えられますから、他の国の国籍を選択すれば、軍隊に行かなくて済みます。しかし、祝福結婚をした多文化家庭の子女の場合、その多くが自ら入隊を選び、神聖な国防の義務を果たして
いるという事実は、非常に誇らしいことです。
このような状況で、私たちがまず何より優先すべきことは、多文化家庭に対する認識を変えることです。いずれは、「多文化家庭」という言葉すらもなくなるようにしなければなりません0その言葉には、既に差別的なニュアンスが含まれているのです。家庭はただ「家庭」であって、その前にどのような修飾語も付けてはいけません。国籍が違う男性と女性が結婚したからといって「多文化家庭」と呼ぶのは、人類の普遍的な価値観に合いませんし、神様のみ意にもそぐわないことです。
早くから世界的な祝福結婚を主宰してきた文総裁と私は、既に三十年前から本格的に、結婚を通した人種和合を推し進めてきました。韓国と日本の間で国際祝福を行い、国家間、民族間の壁を崩したのです。それはドィツとフランスの間でも同様です。
祝福結婚をした新郎新婦たちは世界のどのような所でも、神様のみ言と共に幸せな生活を営んでいます。それらの家庭はすべて、それぞれが幸せな一つの家庭なのであり、国際結婚か、そうでないかは関係ありません。
宗教が目指すべき最後の目的地は、宗教の要らない世界です。人類がみな善良な人間になれば、宗教は自然と必要なくなります。同じように、「多文化家庭」という言葉が消え、「神様のもとの一家族」、「皆が兄弟」になるとき、真の平等世界、平和世界が築かれるのです。その平和世界の最も根底、礎にあるのが、真の家庭、真の愛なのです。
私力持てるものをすべて与えても
「ショーシャンクの空に」は、私が印象深く観た映画の一つです。無念にも殺人の濡れ衣を着せられ、獄中生活をしていた主人公が、千辛万苦の末に脱獄し、自由を手に入れるというストーリーです。文総裁も無念な獄中生活を六度も経験したので、監獄に入れられた主人公の苦しみに深く共感し、感銘を受けた映画でした。
その映画の最後に、手紙を読み上げるシーンが出てきます。
希望は良いものだ。たぶん最高のものだ。良いものは決して滅びない。
希望、真の愛、真の友情などは、どんなに時間が経っても変わらず、その価値は消えません。真の愛は最も絶望的な状況においても、希望と勇気を呼び起こします。しかし今日、人々は道徳心を失い、物質万能主義に陥って、苦しみあえいでいます〇これらすベての痛みは、自分を捨て、他のために生きる真の愛によってのみ、治癒されるのです。
私は毎朝、目を覚ますと、祈祷と瞑想で一日を始め、きょうは誰のために何をするかをじっくり考え、実践します。宗教的な教えや政治•社会改革も重要ですが、それだけで幸せな世界を築くことは難しいのです。寒さに震える隣人に一足の靴下を真心込めて履かせ、さらには全く見知らぬ人のために自らを完全に犠牲にしながらも、代価を求めず、与えて忘れてしまうのが真の愛です。
家庭連合は今、世界宗教になっていますが、ほんの三十年ほど前までは、まともな建物一つありませんでした。信徒が献金をすれば、そのお金は社会と世界のために使われたのです。宣教師が海外に出るときも、古びたトランクを一つだけ持って行きました。彼らは任地で働き、自分で稼いだお金で何とか教会を切り盛りしていったのです。信徒たちの献金は様々な国に学校を設立し、病院を建て、奉仕活動をすることに使われました。これらの活動はこの六十年間、うまずたゆまず続けられました。
このような奉仕をさらに体系的に行う必要性を感じ、私たちは一九九四年、社会団体「愛苑銀行」を設立して、全信徒が本格的な奉仕活動に取り組めるようにしました。炊き出しから始め愛苑芸術団の公演、国際救援活動などを続けることで、国からも大きく認められました。
これをさらに広げていくために設立したのが、HJ世界平和財団の「圓母平愛奨学苑」です。「圓母」とは、「円い母」という意味ですが、母親は、あらゆる人の中で最高の存在です。同じ家族だとしても、それぞれ性格の違う一人一人を愛で抱き、睦まじい家庭を築いていく人が、まさに母親です。「平愛」とは、疎外されている人のために尽くしながら、高いも低いもなく水平にして、全宇宙を真の愛で満たすことを意味します。真の愛の種をまず蒔いてこそ、のちのち真の愛の芽が生え、すくすく育つのです。
私は文総裁が聖和した際、世界中から届けられた弔慰金をすべて、圓母平愛奨学苑の基金としました。また、宣教用のへリコフターを売封し、その基金をさらに増やしました。私が最も重点を置いているのが、青年の人材を育て、奉仕と分かち合いを通して、平和の夢を実現していくことです。奨学事業は、圓母平愛奨学苑の最優先課題です。教育が人をつくり、人が未来をつくるという真理は、決して変わりません。知恵と徳を兼ね備えた人材を育て上げるというのは、地球■の明るい未来のために絶対に必要なことです。私は夢とビジョンを持った世界の青少年に毎年奨学金を支援し、彼らを未来の指導者として育てています。
このような事業をするには、自分自身のことを忘れてしまわなければなりません。自分ではなく、他の人のことをまず考えるようになるとき、真の人生が始まります。持てるものをすべて与えても惜しくないという心で、隣人のために献身的に尽くさなければなりません。そうするとき、真の喜びが訪れるのです。その喜びすら忘れてしまえたとき、神様が私たちの元に訪ねてこられるのです。