イエス様の生涯と愛 第32話
三、イエス様と洗礼ヨハネ
洗礼ヨハネの使命
今日キリスト教信者は、イエス様が天使長のラッパの音とともに雲に乗って再び来られると言うのですが、そのようなことはありません。その前に、この地上に天使長の使命を完結し得る天の忠臣が現れなければなりません。そうして「私が来たのは、私の志のためではなく、神様の息子のみ旨のためだ」と、宣布する者が現れなければならないのです。
そのようなことが、イエス様の当時にも起きました。その使命の代表的な中心存在が、洗礼ヨハネでした。ですから彼は「悔い改めよ、天国は近づいた!私が来たのは、私のためではなく、彼を証するためである」と言いました。
その洗礼ヨハネは僕として来て、イスラエルの国全体を代表して堕落した直後のアダムの立場を復帰しなければなりませんでした。堕落直後のアダムの立場、堕落していないアダムの立場に連結できる、その立場を復帰しなければならなかったのです。堕落したこの世で、堕落していないアダムの立場を復帰して、この世のすべての権限を彼に相続させることを約束すべき代表者が、洗礼ヨハネだったのです。
「悔い改めよ、天国は近づいた」という言葉は、洗礼ヨハネ個人の言葉ではありませんでした。それは全イスラエルの歴史を代表し、イスラエル民族を代表した言葉であり、四千年の歴史を代表し、この地球上に生きている全人類を代表する言葉だったのです。また、洗礼ヨハネがイエス様に洗礼を与えたその場は、歴史的なすべての責任を相続させる場でした。そのあとにイエス様は出発することになるのです。
それはどういうことでしょうか。この地にまだ天の忠臣が現れなかったということです。忠臣が現れるには、この地上に真の神様の息子が現れなければなりません。天使長はその神様の息子に仕えて、天の前に忠臣の道理を果たさなければならないのです。神様の息子を愛することによって、忠臣の基準が決定されるのです。それゆえ歴史的なこの終末時代に、必ず神様が愛し得る息子が現れなければなりません。そうなってこそ忠臣が決定されるのです。
神様が洗礼ヨハネを召して立てられたのは、それまで四千年の間、神様と対決してきたサタンの頭、天使長、神様を裏切ったその天使長ではなく、神様のために忠誠を誓って乗り出した天使長の立場の代わりをさせるためでした。イエス様に忠誠を果たし、イエス様のために生きよということでした。イエス様の困難を自分の困難と思い、それを克服するために、あらん限りの力を尽くせということでした。
ところが洗礼ヨハネは、そのような責任を果たすことができませんでした。ですから歴史的な悲しみは、より一層深まらざるを得なかったのです。洗礼ヨハネの弟子たちは、イエス様の弟子にならなければならず、洗礼ヨハネはイエス様の三弟子に入らなければならなかったのです。洗礼ヨハネを歓迎した数多くの群れは、イエス様を歓迎する群れにならなければならなかったのです。
そうして洗礼ヨハネは、新郎、新婦の本然の名をもった神様の息子、娘に忠誠を尽くす天使世界の代表的実体として現れた者であり、天使世界を導き、実体のサタン世界に対して防備しなければなりませんでした。神様が訪ねてこれる天使長の実体目的を完結した洗礼ヨハネとならなければならないのに、彼がその使命を完結できなかったので、イエス様はその使命までも責任を負わなければならなかったのです。
それゆえ、僕たる道理ができたのです。「私が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」と言われたでしょう?神様の息子がそのように語る話がどこにありますか。新郎として、あり得ないことでした。それゆえ、栄光の中で出発すべきだったイエス様は、悲しく恨めしい僕のくびきをかけて出発しなければならなかったのです。そのような歴史的な過程が残っているがゆえに、その峠を越えるために生まれたのがキリスト教の二千年の歴史なのです。
それとともに神様は、民族的摂理を世界的摂理に引っ張ってこられたのです。歴史を導いていくには、歴史の内部をすべて清算しなければなりません。清算するには、個人的、家庭的、国家的、世界的にすべて清算しなければなりません。本来は万民が従って発展させていかなければならないのが天の摂理であるにもかかわらず、人間がその責任を果たせず、歴史はだんだんと発展してきたのです。神様は、そのような外的な歴史に歩調を合わせながら、内的には歴史の目的と時を成し遂げるために準備してこられたのです。