イエス様の生涯と愛 第26話

み旨の展開前の生活

もう一度イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は天の玉座を前に復帰の使命を担い、この地の悲惨な立場で来られました。そのように来たイエス様は、何をすべきだったのでしょうか。彼には万物を復帰すべき責任があり、万民を復帰すべき責任があり、僕(天使)を復帰すべき責任があり、また子女を復帰すべき責任がありました。

それゆえ彼は、父母の中でも世界的な父母の心をもたなければならず、兄弟の中でも長男の心、兄の中でも兄の心をもたなければならず、世界的な孝子の心をもたなければならず、世界的な忠臣の心をもたなければなりませんでした。また世界的な祭司長の心をもたなければならなかったのです。

そしてこの地上で神様の前に忠誠を尽くして、善の実績を積んだ先祖たちがいるならば、彼らに後れを取らない忠誠の心までもたなければなりませんでした。それゆえイエス様は、エルサレムで暮らしながら御飯を食べるときも、「神様、私は御飯を食べますので、アブラハムの祭壇に供えられた三つの供え物として受け取ってくださいませ」と祈るような生活をしました。

堕落によってすべてを失ったために、嘆息の圏内にある万物と人間のすべての嘆息の条件を、内的に蕩減すべき使命が彼にあったからです。それでイエス様は人知れず、そのような歴史的な生活の基盤を築いていかなければなりませんでした。彼は人間の世の中でみ旨を展開する前に、人知れず内的心情の世界において、歴史の背後を中心として生活しなければならなかったのです。

彼が三十年の間、世の中で笑って、いいかげんに生活したように思うかもしれませんが、彼の生活すべてが祭祀でした。彼が見聞きするすべてが、父が受け取り得るものであったのです。「私が泣くのは、お父様(神様)の苦痛と因縁を結ぼうとするからであり、私が動くのは、この地、この悪なる世をお父様のものとして捧げるためです」という基準で生活したのです。そして、この地のすべての万物と関係を結ぶことを絶対的な目的としたのです。このようなことを知らなければなりません。

イエス様は寝ても覚めても、自分によって万民の罪が贖罪されることを願う、心情をもっていました。眠るときも、万民の罪が贖罪されることを願う心情をもって寝床に就いたのです。人知れぬ静かな夜に目覚めて起き、寝ている万民の代わりに独り祈り、祭祀を捧げる祭司長的な使命を果たすこともありました。「お父様、天宙的な恨の条件を蕩減するための一つの実体として、私を受け取ってください」という隠れた祈祷の生活をしたのです。

イエス様の生活を見ると、彼は万物の価値を無限として、万物の恨を晴らしてあげるために努力しました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命をもって、息子の中の息子の使命を果たしました。このように三十余年という短い生涯路程でしたが、彼はその生涯の間、復帰の恨全体を一身に懸けて蕩減の条件を立て、ゴルゴタの山頂まで行くことによって、サタンを屈服させたのです。

 

イエス様の出家

イエス様は母マリヤからも、ザカリヤやエリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対されて、肉親の保護を受けながら使命を成し遂げることを断念せざるを得ませんでした。これが歴史的な秘密です。数多くのキリスト教徒が殉教の血を流す、このような無念で悲惨な歴史が誰のゆえにそうなったのか、誰一人として知る者がいませんでした。これを解いてこそ解放になるのです。地で結ばれたので、地で解いてあげなければならないのです。

新しく霊的基盤を求め、再び復帰摂理をしようと出発したのがイエス様の出家でした。出家したイエス様は、行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)と嘆きました。一族の基盤を失ったイエス様は、それに代わり得る基盤を探し求めて乗り出したのです。それがイエス様の三年路程でした。唖然とします!家庭と一族を捨て、どこに行ってこれを探すのでしょうか。ですから、十字架で亡くなるしか道がないのです。

家庭と民族の不信に遭い、弟子たちは信仰が揺らいでサタンに侵犯されることによって、イエス様の基台は崩れ、十字架の道を行かざるを得ませんでした。本来イエス様は、メシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福し、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが不信を買い、新婦を迎えられなかったことによって真の父母になれず、その使命を成し遂げられなかったのです。

Atsuki Imamura