イエス様の生涯と愛 第20話
悲しく育ったイエス様
イエス様は、死ぬために来られたというのでしょうか。イエス様の夢は、死ぬことにあったというのでしょうか。もしイエス様が死ぬために来られたとするならば、神様は選民を何のためにお立てになったのでしょうか。
イエス様は、悲惨な環境でこの地上に生まれました。それはマリヤとヨセフが、責任を全うできなかったからです。イエス様を生んだマリヤも、天の美しい天使たちの指導を受けて、自分の生んだ男の子は、将来どのようになるかを知りました。かと言ってイエス様が育つとき、神様がいつもマリヤと共にいてくださったわけではありませんでした。したがって日がたつにつれてマリヤは、思いもよらずイエス様が生まれたものと考えるようになったのです。このようなヨセフの家庭で、イエス様は育ったのです。
一方、ヨセフには、イエス様は本当に聖霊によって懐胎したのか、それとも誰かによって懐胎したのか疑わしいという気持ちが生じるようになったのです。ですから、考えれば考えるほど心苦しかったのです。婚約した処女が赤ん坊を身ごもって来て、「聖霊によって懐胎した」というのですから、ヨセフはどのような気持ちだったでしょうか。神様が教えてくださったその事実は信じたかもしれませんが、イエス様とマリヤを見るたびに、どうして激しい苦痛を感じないでいられるでしょうか。
このようにイエス様は、義父のもとで悲しく育たなければならなかったのです。このようなイエス様の事情を知らなければなりません。哀れなイエス様でした。弟たちの面倒は見てあげましたが、弟たちから少しも愛されなかったイエス様でした。イエス様は、ヨセフから何々をするようにという言葉を聞くときにも、真心から父の愛を受ける立場で聞くことができませんでした。義父から疑われる立場で聞いたのです。このようにイエス様は、見えない虐待の中で育ったのです。
責任を果たせなかった親戚
私たちは、ヨセフが義なる血統の出身だと見ますが、ほかに誰を挙げることができるでしょうか。私たちはヨセフの家庭と、ザカリヤの家庭を挙げることができます。家庭的には、一家庭はカインの立場にあり、もう片方の一家庭はアベルの立場にありました。
ザカリヤの妻であるエリサベツとマリヤは、彼女たちの二人の子供、洗礼ヨハネとイエス様に関して相談しなければなりませんでした。子供たちがどのように育ち、子供たちを育てるに当たって困難なことなどを話し合わなければなりませんでした。彼女たちは二人の子に関心をもたなければなりませんでした。マリヤとエリサベツは姉妹のような立場でした。したがって、イエス様と洗礼ヨハネは近い関係だったのです。
洗礼ヨハネは、生まれるときから不思議な、非凡な子供でした。洗礼ヨハネが生まれる前にも、とても不思議な話がありました。彼の父、ザカリヤは祭司長でした。ザカリヤが至聖所で供え物を捧げていたとき、主の使いが彼の前に現れて、子供が生まれることを知らせてくれました。彼の妻は既に老いていましたが、そのような啓示があったのです。
けれども彼は、その話を信じなかったので口がきけなくなりました。そしてその子供が生まれたのちに、彼が主の使いから言われたとおりにその子供の名前を教えると、そこで口がきけるようになったのです。町中の人たちがそのうわさを聞きました。イエス様もまた同じ経路で、同じような不思議な方法で生まれました。
聖書では私たちは、マリヤがたった一度しかエリサベツの家を訪問しなかったということを発見します。これはまた別の複雑な話です。もし彼女たちが近い姉妹であれば、彼女たちはいろいろ相談しようとお互いに行ったり来たりしたはずです。ザカリヤとエリサベツも、神聖な赤ん坊であるイエス様に関するうわさを聞きました。ですから彼らは、近所の人たちのこそこそ話のゆえにマリヤが足しげく訪ねてくることを好みませんでした。それでマリヤは、エリサベツの家をそれ以上訪問することができなくなったのです。
もしエリサベツとマリヤの二人が、神様のみ旨のもとに一つとなってイエス様の使命に関して互いに行き来して話し合うことができていたならば、事は非常に簡単になっていたでしょう。
イエス様の道をまっすぐにするために来た洗礼ヨハネについて考えると、もし彼が主イエス様を証することができていたならば、洗礼ヨハネを高くあがめていた当時の人たちが、イエス様にもっと簡単に従うことができたでしょう。さらにまた、その二人の母親たちも一つになっていたならば、事ははるかにたやすくなっていたでしょう。