御旨と海 第11話
敬礼式の準備
敬礼式の前夜、喧嘩した夫婦がいたとします。彼らはお互いの間に、そういうことがある限り、敬礼式に来るべきではありません。それは偽善なのです。ある種の蕩減を払って悔い改めをすべきです。互いに謝罪すべきです。もし彼らがそれを行うならば、つまり一方が「私が始めたことです。すみませんでした」と言い、他方が「まあ、私の方にも落ち度がありました」と言うならば、二人はやってきて一緒に誓いを述べることができます。皆さんは心に葛藤を抱いた状態で、天の前に出たいとは思わないでしょう。誓いは週に一度、月に一度、そして年に一度、心を洗浄する機会であるということが、誓いの持つ深い意味なのです。
皆さんは朝早く敬礼式を行っています。そして「こんなに早く起きて敬礼するこの伝統をお父様が廃止してくださったらいいな」と何度も思ったことがあるでしょう。皆さんのうち、誰もがそのように思ったことがあることを先生は知っています。そのように思ったことがない者、手を挙げてみなさい。まあ、先生も時にそのように感じることもあります。四時に起床してその後、一日中働くのがいやだと思う時もあります。しかし、我々が自分を反省し、誓いの中で言っていることを考え、それと自分とを比べていけば、毎週毎週我々は良くなっていきます。自分を完成させるには時間がかかります。魔法の力でもって、いっぺんにやってしまうことはできません。それは何日も、何週間もそして何年もかかるのだから、絶えず我々は努力していかなければなりません。小学校を卒業するには六年かかります。天国へ行くための勉強をしているとして、皆さんはそれを一晩でできますか。皆さんは曇り空を見て「ああ、今日は雨になるかも知れない。学校へは行きたくない。この嵐の中を行きたくないな」と言います。それができますか。それが許されますか。学校へ行きたいと思った日は数日しかありませんでした。大抵、皆さんは疲れていたか、雨か雪が降っていたか、あるいはその他に何かがあったでしょう。しかし皆さんは毎日学校へ行きました。一日三度の食事はどうですか。それに疲れを感じることはありませんか。疲れたとしても、何があろうとも、皆さんは一日に三度食事をしますね。ではトイレに行くことはどうでしょうか。あまり立派な場所にないからという理由でトイレに行くのが嫌だった場合、しかしどうしても行かねばならない時、皆さんはそれでも行くのを拒みますか。たとえその場所を使いたくなくても、行った後ではずっと気持ちが良くなりますね。皆さんは本当に疲れているかも知れません。やりたい気分にはならないかも知れません。しかしやった後でいい気持ちがします。だからそれをやります。
敬礼式の時には、皆さんはシャワーを浴びるか、風呂に入って身を清めなければなりません。それは霊的なものに対しても当てはまります。前の週に何か間違ったことをやっていれば、それについて考え、そして祈って、敬礼式の準備をしなければなりません。自分の体の各部について考えてみるのです。もし手が何か悪いことを、例えば人を押したり殴ったりしていたならば、皆さんはそれを心から悔い改めなければなりません。もし前の週に、あるいは前の月に、あるいは前の年に、他人に対して悪い思いを持ったことがあるならば、それを悔い改めなければなりません。
毎週、このような時を持てるとは何と素晴らしいことでしょうか。皆さんは自らを清め、準備することができます。それから最も純粋なやり方で敬礼することができます。少なくとも数分間、敬礼する前に深い祈りを捧げなさい。前日の夜、風呂かシャワーを浴びることは、そのことをとても意義深いものにします。皆さんは自らを清め、敬礼式で神様と再び会いまみえるための準備をしています。それから天に対して「今夜、私は清いですから私の近くにいてください。そして朝お会いしましょう」とお願いすることができます。その夜、夢の中で何か良いものを見せてくださいと神様にお願いすることすらできます。そうすると敬礼式は良いですか、それとも悪いですか。今日から皆さんは変わらなければなりません。決して甘い気持ちで、あるいはいやいや敬礼式を行ってはいけません。反対に、心から喜びをもってそれを行うべきです。いつでも、新しい週の一番初めは、新しい皆さん自身の一番初めでもあります。自分自身や自分の配偶者そして子供達のことを思いながら、それらの関係に何か間違ったところがあればそれを清めます。それほど敬礼式は真剣なものです。敬礼式を行えるというこの大きな特権を、皆さんは骨の髄まで感じなければなりません。
聖書は誓いを立ててはならない、宣誓してはならないと私達に警告しています。これは人間が神様にそうするための条件を持たなかったからです。しかし、今はその基盤が打ち立てられ、皆さんは敬礼式に参加することができます。だからこのようにして、神様の前に来れるということは、何と偉大なことかということを皆さんは考えなければなりません。先生は皆さんが儀式的に敬礼式をやっているのではないか、ただ分からずに習慣としてやっているのではないかと心配しています。ユダヤ人達がヤム・キブンつまり贖罪の日にユダヤ教会へ行く時のように、皆さんもとても真剣で厳かでなければなりません。この儀式は家庭の中に天国を建設するためにとても重要なものです。分かりますか。