イエス様の生涯と愛 第80話

キリスト教の受難の歴史

万物を犠牲にしたのは、子女を生かすためでした。子女が生きれば母も生きるので、万物を犠牲にしてきたのです。そこにメシヤが来たのですが、国家を中心として家庭の基盤を築けませんでした。それで子女が、その供え物になったのです。イエス様が供え物として逝ってしまったのです。家庭がなかったのです。家庭がサタンの力によって二つに分かれてしまったのです。そのような嘆きの歴史が、キリスト教の受難の歴史、迫害の歴史なのです。

ローマの兵士によって、家庭が共に氏族が共に滅亡したのです。ローマのカタコンベという所に行ったことがありますか。七代以上の先祖たちの死体がすべて腐って水になり、それが流れるような所を歩きながら、四百年を耐え抜いた偉大な基地として有名です。その後、誰もキリスト教自体を反対しませんでした。考えてみてください。ローマの広場でライオンの餌食になったりもしました。そのような悲惨な歴史を忘れてはいけません。それは、すべてエバのせいなのです。

 

イエス様が四千年の歴史と万民に代わって、神様が喜んで受け取ることのできる生きた供え物、汚れのないものとして捧げられたように、皆さんもイエス様に汚れのない供え物として棒げられなければならないでしょう。

そして皆さんの生活と生涯において、人倫と天倫の道理を果たさなければならず、み旨を成し遂げるためにこの地に来たキリストの代わりに、天の痛みを代わりに感じることができ、イエス様が感じた天的な愛の心情を体恤しながら、準備された教団から排斥され哀れで貧しい人を訪ねていかなければならなかった、イエス様の事情を分かってあげる新婦にならなければなりません。皆さんがそのような人になるならば、神様の怨恨を解き得ると同時に、人間を救うために来られたイエス・キリストの怨恨を初めて解き得るのです。

愛のイエス様は、この地に悖逆と裏切りの民を訪ねてこられ、自分の理想を話し合わなければなりませんでした。それゆえ裏切った先祖たちをもつ私たちは、天を裏切ってきた路程をさかのぼって、「お父様のみ旨はこういうものではないでしょうか。この身をお受けくださいませ!」と言えなければなりません。

神様は、このように歴史を代表して乗り出し得る汚れのない供え物、どこの誰も触ることもなく見ることもなかった汚れのない供え物として、捧げられる人を探していらっしゃることを知らなければなりません。

皆さんが精神を尽くすにしても、現在、皆さんの精神はサタン世界に容認された精神であり、心を尽くすにしても、サタンとささやいた心であり、思いもまた同じです(「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」マタイ二二・37、参照)。したがって「終わりの日」に処した皆さんは、必ずサタン的な精神と心を変化させなければなりません。人生観と宇宙観も変えなければなりません。それは今まで考えていた信仰観をもっては、サタンに勝つことができず、サタンの讒訴条件に引っ掛かっている舞台を通過できないからです。

イエス様が汚れのない供え物として十字架に亡くなったことは、最初で最後であり、これはイエス様が御自身の精神と心と思いを、この地の人々に紹介してくださったことなのです。

イエス様は歴史を代表し、万物に代わり、神様が貴く御覧になることができ、神様が真実であると言うことができ、神様が喜び愛することのできる方でした。

サタンの讒訴を受けられない、サタンの所有にならない精神を、イエス様から感じる時があるでしょう。そのような精神を感じたとするなら、イエス様の天的な人格を推し量ることができるでしょう。またそのような心を感じたとするなら、イエス様の内的事情を感じることでしよう。イエス様の人格と内的事情を推し量る人がいるならば、神様はその人に働くことができるのです。

このように探し求めなければならない驚くべき歴史的な宇宙の焦点、越えなければならない宇宙的な関門があるということを人々は知らずにいます。したがって、汚れのないものとして捧げられることを望むイエス様の願いが残っているのですが、今や私たちキリスト教徒はその願いをどのようにして見つけ、成し遂げられるかということが問題になります。

今日、皆さんがこの願いを見つけようとするなら、皆さんの過去の足りなさを悟らなければならず、その足りなさを神様に心から悔い改めなければなりません。悔い改めるとしても、涙を流さなければならないだろうし、三十年余りの生涯に流したイエス様の涙に代わることができる心がなければなりません。

またイエス様が三十年余りの生涯に、寝ても覚めても、食べる物がなくても一途な心でその一つの志を立てるために、あらん限りの力を尽くしたその精神を見習わなければならず、死の道を行かなければならなかったイエス様の悲惨な心情を感じなければならないのです。

イエス様は地上の不信する人間のために、悔い改めの涙を流される生活をされ、それで終わるのではなくあの国に行っても涙を流していらっしゃるという事実を知らなければなりません。このようなイエス様の内的心情に通じることができ、内的な天性の理念が分かり、内的なイエス様の生活的な姿を知り、涙を流して天地を満たしても足りないその足りなさを感じなければなりません。それだけではなく、涙ぐみ骨肉が溶けるような耐え難い心情を受け継いで、精神を通じ、心と思いを通じたイエス様のすべての愛と人格を私を通じて表現できるようになるとき、そこから天的な因縁を中心としてイエス様と一つになることができるのです。

そのような心情を感じる皆さんであるならば、死の淵から自分を救ってくださったイエス様に感謝の気持ちを感じることでしょう。そしてその感謝の気持ちを皆さんの心と体に満たし、全天地を満たしても足りない、その足りなさを感じるようになるのです。

それではイエス様は、どれほどの悲しみを感じたのでしょうか。イエス様は神様がアダムとエバを失うときに感じられた、天地の崩れるようなその悲しみを解いてさしあげるために、人間を取り戻そうとなさる神様のみ旨に代わって来られたのです。しかし自分を送られたそのみ旨を成し遂げてあげられなくなったとき、神様がアダムとエバを失った時に感じられたその悲しみを感じられたのです。

今日、歴史的な怨恨を解くべき私たちは、神様を失っても悲しむことを知らない人間となり、新郎であるイエス様を失っても悲しむことを知らない人間になってしまいました。また自分には、神様の悲しみを慰めてあげるべき責任があるということも知らない人間になりました。皆さんも、そのような立場にとどまっているならば、神様の摂理の前に立ち上がっていくら父を呼んだとしても、神様は現れないのです。

ですからイエス様が語ってくださったみ言は、無駄ではないということを知らなければなりません。イエス様が真心から神様に向かって、「わが父よ」と言われたように、心を尽くし思いを尽くし精神を尽くす人がいるとするならば、天地が感動するでしょう。

Atsuki Imamura