イエス様の生涯と愛 第42話

四十日断食

イエス様は天に代わって来られ、救世主として万民を救おうとされたのですが、救いを受けるべき民族の中に、そのイエス様の心中を推し量って現れた人は一人もいませんでした。彼の心中はおろか、彼の三十年の苦労の路程も知ることができませんでした。荒野生活をして、民族に責任を負うべき立場にあった洗礼ヨハネ一党さえも反対してしまいました。

このように悲しみの心情で民族を御覧になりながら、洗礼ヨハネに対する一縷の望みをかけたのですが、洗礼ヨハネまでもがイエス様のことを無視していくようになる時、イエス様においては悲しみがより一層、深まったという事実を私たちは知っています。

民族の前に、天の福音をもって現れるべき時が近づいているにもかかわらず、民族が行方知れず、民族の前に天が立てられた洗礼ヨハネも行方が知れなくなり、イエス様は、人々の前に現れることができなくなりました。それで荒野で四十日間の断食路程を経ることになったのです。

今日キリスト教徒は、イエス様にとって四十日の断食期間は栄光の期間であり、イエス様に必ずなければならない期間だと思っていますが、そのようなものではありません。イエス様が四十日断食期間を経ることになったのは、イエス様の前に民族が消え去ってしまったからであり、洗礼ヨハネー派が消え去ってしまったからでした。

さらには、東方の三人の博士とアンナ、シメオン、そしてみ旨を抱いてイエス様を身ごもったヨセフ家庭のマリヤが、イエス様が実践路程に出るときに、彼のことを分かってあげられなかったからでもありました。地の主人公として来られたイエス様であり、万民の生命を救うために来られた天の皇太子であられるイエス様であり、また万民の救い主であられるイエス様が、このように不憫な身の上になったことを私たちは知らなければなりません。

四千年の歴史を終結して、イエス様が築き上げるべき新しい天の祭壇は、栄光の祭壇であり、喜びの祭壇であり、勝利の祭壇でした。ところが新しい祭壇を築くために乗り出したイエス様は、不憫な境遇になってしまいました。おなかをすかせたイエス様になり、サタンの試練を受けるイエス様になってしまいました。サタンに試練を受けるその場面は、全人類が最も悲痛に思わなければならない場面です。

イエス様が四十日間断食をしたのち、サタンにもてあそばれ、そのサタンが提示した様々な条件の試練を受ける悲しみの時間は、そもそも民族が受けるべき試練期間でなければならなかったのですが、むしろイエス様の悲しみとして引き継がれたのです。このようなことを考えると、イエス様はその民族を断ち切り、恨み、呪うべき立場であったにもかかわらず、御自身の空腹の身を起こし、天の心情をつかんで、民族のためにサタンと戦われたのです。

そのときイエス様が置かれた立場は、イスラエル民族も知らない立場でした。そのような立場で覚悟をして、天の前に現れるときのイエス様の心情は、「いかなる悲しみの立場を経たとしても、自分が来た目的と自分が抱いた父のみ旨に対する一途な心は変わり得ない」というものでした。

本来の父のみ旨は、民族を通して万民を救うことであると御存じであるイエス様であり、そのみ旨を尊重なさるイエス様であったがゆえに、飢えやぼろを着ることも、迫り来るいかなる迫害や試練も、彼が三十年余りの間、み旨を待ち焦がれて願った心を、崩そうにも崩すことができませんでした。

それゆえみ旨を抱いて現れるたびに、イエス様は天に代わって御自身が受ける悲しみと、天が受ける悲しみを同時に感じざるを得ませんでした。またそのような立場からみ旨に対して、より一層固い決心をしたので、裏切った民族と裏切った群れを再び探し出せたことを、私たちは知らなければなりません。

イエス様は御自身が生きているとき、イスラエル民族が探してくれることを願われたのですが、そのようにしてくれなかったので、反対に死んだのちに探してあげなければならないイエス様になりました。民族がイエス様に侍れなかったことによって、生きた立場で人類を救うべきだったイエス様は、死んで救いの役事をするようになったのです。

Atsuki Imamura