イエス様の生涯と愛 第56話
第五章 十字架の苦難
一、十字架の贖罪と救いの限界
イエス様の死の原因
イエス様が亡くなったのは、何が原因だったのでしょうか。一番目はヨセフの家庭、二番目は洗礼ヨハネ、三番目は教会が誤ったからでした。これは悔しく無念なことに違いありません。
四千年の歴史を経ながら育ててきたイスラエル民族を信じて神様が息子を送ったのですが、その息子を殺しておきながら、「死ぬために来た」と言うのですか。彼らは、それしか知らないのです。
それならば神様は、何をするために、四千年間もイスラエル民族を中心として摂理をしてこられたのでしょうか。イエス様を殺そうとして摂理されたのでしょうか。生まれながら死んでもイエス様はイエス様であり、また神様の息子になるのに、何のために三十歳にもなってから、成人になってから、やかましく大騒ぎをして、追われて死ぬようにされたのでしょうか。
生まれて何もせず、そのまま死ぬようにしたらよいのに、赤ん坊の時では救い主にはなれないのでしょうか。これはいくらでも理解できることなのに、それを理解できずに信じている人たちがいるのですから、実に恥ずかしいことです。それでいながら、天国に行こうと言うのですか。
ここで語る先生は、それをすべて暴きました。イエス様が死ぬことになった一番の原因とは、どこにあったのでしょうか。ヨセフの家庭にありました。イエス様はこの地に、何を探し出すために来られたのでしょうか。家庭を探し出すために来られたのです。イスラエルの国は平穏な中にあったとしても、ヨセフの家庭だけはイエス様を中心として天の国を立てていかなければならなかったのです。そうしてこそ、イエス様が新郎として新婦を迎えることができたのです。
本来神様は、夫は天国に行き、妻は地獄に行くように創造されたのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち父と母と息子と娘が氏族を成し、民族を成し、国を成そうということでした。そうでなければならないでしょう?ところが人間が堕落したので、地獄ができてしまったのです。
このような天倫のみ旨に対してこられたイエス様は、神様が送られたみ旨を成し遂げ得る真の家庭をこの地でもつべきであって、霊界に行ってもつのではありません。
イエス様が十字架で亡くなるようになれば、数多くの弟子たちも十字架で血を流すようになっているのです。ですから天国とは、そのように血を流して死んだ弟子たちを抱いて入れる所ではありません。この地上で自分を信じて従う弟子たちに、血を流させて救うのが本来の救いの目的ではありませんでした。もとより、そのようなことをすべきだったイエス様ではなかったのです。
氏族から無視されたイエス様
もし教会がイエス様に従わなくても、教会の中心となる氏族が従えば、イエス様は死なないのです。道理がそうではないですか。教会が従わず国が従わなくても、イスラエルの国の中心であり、ユダヤ教の中心となるヨセフの氏族が従っていたならば、イエス様は死なないのです。
教会と国が責任を果たさなかったとしても、氏族圏内でイエス様の家庭的土台を準備していたならば、外的にはヨセフの家庭の一派を中心としたカイン一族が現れ、内的にはイエス様を中心とした新しい天の一族が誕生したはずではないでしょうか。
そうなっていれば、イエス様の相手である新婦も決定され、イエス様の願いである四位基台を築き得る息子、娘をもち、家庭での父の立場も決定されていたことでしょう。また、イエス様が年を取っておじいさんになれば、孫ももったでしょう。そうなればイエス様の一族ができたはずではないですか。
ユダヤ教が反対し、イスラエルの国が反対しても影響を受けないのです。これさえ一つになれば、イエス様が死んでもイスラエル教団の中心に立つようになるのです。また、教団の中心に立つのはもちろんのこと、イスラエルの国を収拾するようになるのです。そうなっていれば、今日、キリスト教に悲運の歴史はあり得ないという結論が出るのです。イエス様の前に十字架の道はあり得ないのです。
今日までの二千年の歴史はすべて、イエス様を殺したことに対する蕩減歴史です。蕩減路程を経ずしては、歴史を発展させることはできないのです。個人復帰、家庭復帰もみな、イエス様の所願成就がなされなかったからするのです。その基盤を世界的に開拓しなければなりません。イエス様の願いを成し遂げてさしあげるためには、必ず死の代価を払わなければなりません。イエス様の願いの基盤が霊的にだけ立てられたので、死の代価を払わなくては範囲を広めて世界の舞台まで行くことができないのです。