真の父母経 第125話

第四節   「万物の日」宣布献貢式と「万物の日」宣布

真の父母様は、一九六三年、陰暦六月六日(陽暦七月二十六日)、ソウルの青坡洞一街の旧本部教会で献貢式を開催された。天の子女の名で、サタン圏に属していた天下の万物を神様のものとして取り戻し、お捧げする儀式であった。真の父母様は、この献貢式を期して、陰暦五月一日に遡り、翌年から毎年、この日を「万物の日」として記念するようにされた。真の父母様は、三年路程の終結宣布の翌日である一九六三年、陰暦五月一日(陽暦六月二十一日)を「万物の日」と定められたのである。

1   きょう、献貢日を迎えた皆さんは、今やすべての条件を立てて、国がなく、民がなく、領土がなくて悲しまれる父のみ前に、「これから天国の民を立て得る神様の息子、娘が現れ、その息子、娘が勝利して家庭を築き、家庭を束ねて民族と国家を築き、国家を動かして世界的基盤を築く歴史が始まりますので、喜んでください!」と言うことができなければなりません。

統一教会を中心として見るとき、宗教的に一次的な勝利の基盤を築いておき、聖婚式を通して二次的な出発を宣布するようになりました。私たちが今までこの国に宣布した中心内容は、私たちの真理と祝福です。聖婚家庭を通して、そのようなことを宣言してきました。このように、一次、二次を経てきながら、国家的な大行事として宣布し得たというのは、私たちが今後、天国を建設するのに、国家と縁を結ぶようになる、時代的な恵沢圏内に入ってきていることを意味します。

2   人間は、信仰、心情、実体を失って堕落しました。お父様は、神様に最も忠誠を尽くすために、最も信じられないことを語る人は誰か、と探し求めました。「私は神の夫人である」と語る人、「私が主である」と語る人などを訪ね、彼らが歴史を代表する信仰をもっているか、心情をもっているか、実体になったかを試験したのです。

信仰を決定したのちに、心情復活と実体復活を宣布しました。そして、縦的に取り戻してきたものを横的に立てたあとに祝福をしたのです。この基準の上で(天が)褒美を与えたということです。

また、このように横的な基準が立てられたあとに聖地を選定しました。このような背景で、神様にすべてのものを捧げるという条件の献貢式をすることによって、縦的なものが横的に展開され、平面的な基準が生じるようになったのです。

3   きょう、献貢日を迎えて、皆さんが参加したこの場に来るまでの道は、涙の道でした。この場は涙の場です。どれだけ泣いても止められない涙の場であり、痛哭しても形容し難く、どんなものによっても遮ることができない場です。ただ、自らの心の奥深くに、他の人が知らない抱負をもったとすれば、何か外的な物をもっていることが福であると思うのではなく、心の奥深くにもっているこの怨恨とこの悔しさを、億万のお金とも換えられない無限の価値のものとして感じなければなりません。これを貴く思うことができ、これを完結するための責任を背負うことができる心が必要です。

その心を、皆さん全体の中心心情として仰ぐようになるとき、神様はここで初めて、六千年の深い悲しみを私たちに相続させることができるというのです。

この場は、神様の悲しみ全体を厳粛なものとして相続する場です。それを相続しておいて、父が立てようとされた本然の万物を、万宇宙と世界に、父の喜びのものとして復帰してさしあげる基盤を築こうという信念だけが、皆さん自身にとどまらなければなりません。そのようになってこそ、ここに参加できる資格をもつことができるのです。悲しい歴史をもった天の曲折を忘れてはいけないというのです。

4   (天の)お父様、この献貢金は、万物をすべてお父様のみ前に捧げる条件の祭物でございます。これを締めくくるために真の父母を立てられ、真の家庭を立てられ、真の聖地を立てられました。

この聖地を基盤として、精誠の込められた心の基盤の上に条件を立て、数多くの子女たちが集めたこの献貢金をお父様のみ前にお捧げいたします。これは、この国全体を象徴するものであり、これは全天宙を象徴するものであり、これはお父様の六千年間の悲しみを解怨してほしいという、この上なく微々たる条件物でございます。物質それ自体を御覧にならず、その背後に連結された心情だけを御覧になるお父様であることを知っておりますので、この条件をお父様のみ前にお捧げいたします。

ここには血の涙が混ざっています。統一信徒たちが聖地を探し求め、涙を流しながらお父様のみ前に訴えた心情の絆が連結されていますので、エデンの地の上に、韓半島の上にある万物をお父様のものとして今や掌握してくださり、お父様の民として、お父様の国として掌握してくださって、全世界を掌握できる勝利の基盤として受け取ってくださることを、お父様、切にお願い申し上げます。

5   私たちは、天地万物を造った神様に、蕩減基金をお捧げしなければなりません。聖別してお捧げしなければならないのです。アブラハムが祭物を捧げるとき、鳩だけを裂かないことによって、すべてのことが失敗に帰しました。天地がすべてひっくり返ったというのです。アブラハムが祭物を誤って捧げることによって、すべてのものが落ちてしまったのです。

今回、私たちがすることの中には、ありとあらゆることがあるでしょう。血を売って差し出す人もいて、あらゆる苦労をしながら商売をする人もいるでしょう。皆さんがそのようにできなければ、恨になります。そのような歩みを見るたびに、涙を流す立場に立たなければなりません。宇宙的な理念を中心としたみ旨であるとすれば、その理念圏内に立った父母を中心とした兄弟、そのような兄弟を中心とした家庭、そのような家庭を基盤とした天宙が必要です。ですから、万物を復帰する一日」を制定したのです。

6   ユダヤ教がイエス様の命を奪うことによって、神様のみ前に非常に大きな釘の跡を残しました。積み重なったその恨を解かなければ、天と地を復帰できません。完全復帰のためには、本来、万物の祭物時代、子女の祭物時代、父母の祭物時代を経なければなりません。ところが、アダムとエバが神様に背いてから、ただの一度も父母の立場で祭物を捧げたことがありませんでした。

しかし、皆さんの前に「父母の日」が立てられるようになったので、父母を通じた「子女の日」が出てこなければならず、「万物の日」が出てこなければなりません。これによって、神様の心情を解怨成就し、父母の心情、子女の心情、万物の心情(嘆き)を解怨成就しなければなりません。そのようにしてこそ、アダムは堕落しましたが、私たちは堕落しなかったという条件を立てて、嘆息圏を抜け出せるようになります。ですから、私たちは、そのような日々を定めるとき、逆さまにして、まず「父母の日」を定め、それから「子女の日」、「万物の日」を定めたのです。

7   「万物の日」は、どのようにして出てきたのでしょうか。エデンの園でアダムとエバが堕落することによって蒔いた罪の種が、彼らの息子たちであるカインとアベルとして収穫されました。ですから、罪の種を蒔いた父母が復帰されなければなりません。そして、天宙史的な父母復帰の基台を中心として、忠孝の道理を果たすことができる子女の基準を復帰しなければなりません。この基準が決定されたあとに、初めて「万物の日」が出てくるようになったのです。

この地上に広がっている万物は、この上なくかわいそうな立場にいます。神様が希望の中で造った万物であり、神様があらゆる精誠をすべて尽くして造った万物でしたが、人間が堕落することによって、万物は人間に代わって贖罪の過程を経なければならなかったのであり、悲しく犠牲にならなけれしばなりませんでした。人の命を奪って祭祀を捧げることはできないので、万物を祭物として犠牲にする祭祀を捧げてきたというのです

8   復帰路程においては、万物を復帰し、子女を復帰し、父母を復帰してきました。万物を祭物として捧げ、その次に、息子を祭物として捧げました。その次には、父母に向かって上がってきました。ですから、霊的に父母がその十字架を負ったのです。イエス様と聖霊が、そのような迫害を今まで受けてきました。キリスト教がそうだというのです。それゆえ、逆さまに上がってきたのです。

私たちの時代には、これをまた逆さまに立ててこなければなりません。ですから、「父母の日」を定めたのは、この十字架の長成段階を越えることを意味します。「子女の日」もそうであり、「万物の日|もやはり同じです。このようなことをすべてしておいて、「神の日」を設定したのです。

「万物の日」に対する姿勢

万物は、本来神様に属したものであるため、すべての財産は神様に奉献しなければならない。特に祝福家庭は、所有物を神様のみ前に捧げ、神様の名によって再び相続を受けなけれfならないのである。真の父母様は、万物が、真の主人に出会い、公的な権限と価値を賦与され、真の愛の管理を受けなければならないと語られた。また、日常生活のすべての必需品は、被造万物を象徴した物であるため、いい加減に扱ってはならず、貴く扱い、評価することを強調された。

9   「万物の日」を通して、これから第三の父母との絆を私たちが結んでいかなければなりません。ですから、万物を愛さなければなりません。慈悲の思いをもって万物を愛する心を育み、鳥を愛し、動物を愛し、すべてのものを愛する心を育んでいくことによって、今後、父母に対する愛も実践でき、人に対する愛も実践できるのです。

堕落圏内において、三大嘆息圏を神様から、人類の父母から、人類から、万物から解怨成就できる道は、ただ統一教会の道しかありません。そのような道を開門する最初の出発の日々が「父母の日」であり、「子女の日」であり、「万物の日」です。万物は第三の父母です。ですから、自分の体を愛するように、万物を愛し得る皆さんにならなければなりません。愛する主人には、すべてのものが付いてくるようになっているのです

10  「万物の日」を祝う理由は何でしょうか。皆さんの所有する万物を、神様のみ前に結束させるためです。そのためには、皆さんの私有財産はもちろん、共同財産である国のすべてのものを、神様のみ前に復帰してさしあげなければなりません。これが皆さんの責任です。また、世界、地球星を神様のみ前に奉献してさしあげなければなりません。皆さんには、この地球星を神様のみ前に奉献してさしあげる責任があるのです。

奉献するときは、必ず父母の名を通してお捧げしなければなりません。そのような所有の権限が、どんな天地にも連結される領域をつくっておいてこそ、「万物の日」を祝う目的が達成されるのです。

11  人間を再創造しようとすれば、アダムとエバが創造される前の世界から再創造しなければなりません。ですから、アダムとエバの前に造られた被造万物がなければなりません。しかし、人間が堕落することによって、そのような被造万物が「私」にはありません。

そのため、統一教会では、七数の半分となる三年ないし三年半の路程で、必ず自らを再創造できる天の物質的要件を復帰しておかなければならないのです。それは、神様がするのではありません。

六数は蕩減路程期間であり、七数は安息圏であると考えるとき、三年ないし三年半の路程は必須です。このようにして、自分の血と肉を注がなければなりません。自分の血を与えたからといって、それが物質的条件になるのではありません。血と肉を投入して、サタン世界の物質を聖別できる立場に立たなければならないのです。それは、自分の欲心のための物質ではなく、宇宙的で公的な物です。天の公的な物にならなければなりません。神様の物にならなければならないのです。

12  お父様は、草創期に狩りに行きました。早朝に出掛け、夕方に太陽が沈み、真っ暗になるまで山から下りず、夜はそこで眠ってまで狩りをしてきたのです。韓国の高い山という山は、すべて踏破しました。

ある時は、猪を捕まえようと出発したのですが、十四日が過ぎるまで、猪の足跡一つ見つけられなくても続けました。他の人々は、「お父様はなぜこのようなことをするのか」と不平を言いました。猪を捕まえようと歩いたのではなく、山を踏破したのです。高い山と低い山、深い谷間を踏破しました。それがすべて終わったので、その次は海に行きました。

海に行って、船に数十年間乗りました。一九六三年に「天勝号」を造ったのです。アメリカでは、船を造って乗り始めてから、生涯にわたって乗り続けました。早朝五時に出ていって、夜十二時に帰ってくるのです。雨が降っても雪が降っても、毎日のように出掛けました。だからといって、魚を捕まえようとしたのではありません。精誠を捧げたのです。これは、神様が造った隠された宝物です。永遠に生きる実体として造っておいたのです。ですから、五大洋をくまなく探し、すべて踏査したのです。

Luke Higuchi