真の父母経 第335話
19 お父様は、谷間の道、険しい道、困難な道を崩し、神様を安らかにお迎えできる平地と高速道路を築いてきました。ですから、これから宗教がなくなるのです。真の家庭で終わります。真の家庭が生じ、真の父母がいて、真の夫婦がいて、真の子女がいればよいというのです。神様が訪ねてきて、「あなたたちと一緒にこの家で、永遠に暮らそう!」と約束してくださり、玉璽を押してくださることのできる家庭になれば、宗教は必要ありません。いかなる宗教も必要ないというのです。
20 霊界と肉界が今まで分かれていたので、これを埋めて、息子、娘から三代を中心として霊界と地上を動員し、祝福恵沢圏内に立ててあげるのです。それにより、霊界と肉界の一体圏をつくるのがイエス様の願いなので、それを代わりに実体として立ててあげる業をしているという事実を知らなければなりません。宗教は、家庭が安着することを最高の目標にしなければなりません。家庭が安着すれば、宗教という名前自体も外してしまわなければならないのです。それで、一九九七年四月八日に、「世界基督教統一神霊協会」の看板を外し、「世界平和統一家庭連合」の名称を四月十日から使用しなさいと言ったのです。家庭の定着です。
父母様が教えた内容で、心情的一体圏を中心として地上で安着する家庭は、天上に直接行くことができます。堕落のなかった世界、解放の世界、天国に入っていけるというのです。それは蕩減復帰の原則によってできるのであって、そのままではできません。その伝統的な縁、父母様が引き継いでくれた伝統思想を、自分の一族と子孫に残さなければならないというのです。
第二節 真の父母様のみ言と訓読会制定
真の父母様が残されたみ言
真の父母様は、生涯にわたって多くのみ言を残された。み言は、人類に残された貴い教えである。そのみ言には、神様の人間創造と救いの秘密をはじめとする偉大な原理が収められている。真の父母様は、一九九七年十月十三日に訓読会を制定され、み言を読んで生活化することを願われた。
1 お父様は歴史時代を経てきながら、たくさんの話をしました。個人についての事情、家庭についての事情、国についての事情、あるいは世界についての事情、天の国についての事情をすべて語りました。その語ったことがどこに行ってとどまっているかが問題です。神様の言葉は、必ず創造的な実体をつくっておかなければならないのですが、その語ったことの実体的対象がどこにあるのかが問題です。
それでは、語った人は、その言葉を自分の言葉として語ったのでしょうか、世界の言葉として語ったのでしょうか。その言葉は、自分のために語ったものではなく、世界のために語ったものです。その世界のための言葉が世界的な実体をもってこそ、世界のための言葉として、語った人も関係をもつことができます。それが成し遂げられなければ、関係をもつことができません。言葉は必ず主体的な根源となって、相対的実体と共に一つになってこそ、言葉の目的が成し遂げられるのです。ですから、語ったことが実体として成し遂げられなければなりません。
2 お父様のみ言は、一人で語ったものではありません。神様の代わりに語ったのです。ですから、教本と教材には個人の言葉は一つも入っていません。私が霊界と共鳴した立場で、天が語ったのです。その話を聞いて、私も悟るのです。私がみ言を語るとき、神様と霊界が協助し、天使世界が協助します。
3 解放後、最も多事多端だった政治、経済、文化の変化時代に、四十年間闘って、倒れることなく生きてきたあらゆる内容が、み言集に入っています。将来だけでなく、歴史時代のそのいかなる問題も、父母様が経てきたその道と比較すれば、何でもありません。
「ここには、百科事典のように、あらゆる勝利の方法が入っているので、この本を学べば、社会科学を学んだ王者になれる」と言うとき、学ぶでしょうか、学ばないでしょうか。科学技術から政治、経済、宗教、文化等々、語らなかったことがありません。今まで語ったことは、すべて意味があって語ったのです。このように見るとき、政治世界、経済世界、知識世界など、すべてのものが将来と通じなければならず、世界と通じなければならず、一つの理想世界と通じなければならず、権力構造もそこに通じるシステムを備えなければなりません。そのようにすることができなければ、いくらうまくやっても、滅びてしまうのです。水も、とどまっていれば腐るというのです。
4 真の父母を知らなければなりません。真の父母とは誰でしょうか。真の父母をみな知らないというのです。皆さんは真の父母を知らないので、み言集を読まなければなりません。そこには、途方もない内容があります。その内容を、どのようにしてすべて自分のものにできるのでしょうか。既にあらゆることを教えてあげました。み言集を読まなければなりません。皆さんの生命以上に、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙以上に必要だと考えなければならないのです。
ハーバード大学の図書館の本にもありません。いくら探し求めてみても、そこには統一教会で教えてくれる内容のようなものはありません。そのような価値はないということです。そのようなものは、消えなければなりません。
しかし、み言集が残っていれば、いつでもその内容を反復して読むことができます。ですから、一生懸命に学ばなければなりません。そうすれば、高い次元に連結されるのです。
5 お父様のみ言を見れば、五十年前に語ったみ言も、今語ったみ言も、同じです。それが驚くべきことなのです。青春時代から老年時代まで、波瀾万丈な受難の道を経てきましたが、その時の、そのみ言を成し遂げていくのです。お父様の言葉は流れていきません。永遠に問題になります。文人世界でも問題になり、芸術世界でも問題になります。
お父様は、多角的な面で素質をもった人です。文学的な面では、長編小説を毎日一編ずつ書くことができる能力をもっている人です。監獄に入っていって、そのようなことをしました。詩的感情が豊かなのです。
また、革命的な言葉を使うことができます。み言集を読んでみると、想像できない言葉がぽんと飛び出して連結されていきます。革命的です。理論的なだけではありません。いくつかの峠を飛び越えていって、連結させておいたのです。そのようなことをすべて知っている人です。
6 五十年前に語ったことも、今語ったことも、すべて同じです。同じ内容で話しました。神様は永遠です。ですから、何億万年が過ぎても、語ったその内容は同じです。同じ基準を中心として語ってこそ、歴史的な神様、過程的な神様の悲しみを解怨できる息子の相続権をもって、神様を解放できるのです。自分勝手に語った言葉ではありません。
私の思いどおりに語ったのではありません。み言を語るときは、絶対に私一人では語りませんでした。神様が先に語るまでは、口を開かなかったのです。ですから、このみ言が偉大なのです。このみ言を語れば、本心が湧き出てきます。
お父様自身が昔、話していたその境地に入っていくようになれば、その時の心情とその時に霊界から協助していた霊力が縮小されて入ってきます。その縮小されたものを全世界の家庭がそのような思いをもって霊界に送ることによって、縮小された心情が世界をカバーできる拡大心情圏、核心圏が連結されるのです。そこには、再創造の能力が介在した力があるという事実を知らなければなりません。訓読会を嫌だと思う人々は、その心霊状態が欠如しているのであり、病弊が生じて堕落し得る根源が不用なところに出てくるというのです。
御飯よりもおいしく、何よりもおいしくなければなりません。時間がないので、そこまでやりませんが、たとえ二十四時間、何年続けるとしても、「これを一気に、一さじの御飯のようにのみ込んでしまわなければならない」という思いをもって、訓読会に臨む姿勢を整えなければなりません。
7 お父様は、どこに行ってみ言を語ろうと、その環境に合ったみ言を語ります。ですから、あらかじめ説教の準備をしてみ言を語るのではありません。その場で、霊感によって語るのです。それが違うというのです。今までの記録を読んでみれば分かるはずです。み言は、すべて同じ内容のようですが、前後が違うのです。行く道が違います。ですから、ある面から考えてみれば、難しいと言えば難しいのです。
今後、み言を勉強しようと思えば、精誠を尽くしながら勉強してこそ、よく解けるのです。そのようにしても、ある題目に来ると解くことができず、ある題目では理解できないほど飛躍したり、ストップしたりします。皆さんがそのようなものを理解しようとすれば、祈らなければなりません。
8 私は、原稿を書いて語る人ではありません。原稿なしで上手に語る人です。神様がそのように訓練させました。どこに行っても新しい創造をするのです。創造できる原本が神様なので、神様と共に一つになって発表したのです。ある時は、語っていて間違うと、舌が回らなくなります。間違えば分かるのです。挙動が不自然になります。そのようにして発表したみ言です。誰もそれを占領できません。
ですから、聖日に説教をしても、五分前まで題目を決めさせてくれません。それは、どれほど苦しい境地か分かりません。死刑場に出ていくのと同じです。ですから、深刻なのです。何も準備せずに出ていき、口を開き始めると、天下のあらゆるものが夢中になるのです。そのような役事をした原本の記録がみ言です。
9 お父様自身は、いい加減にみ言を語りませんでした。聖日のような時に話をすれば、五分前まで題目が見つかりません。本を見て参考にしたり、歴史的な人物たちが語っていたことを題目にもってきてつけたりしてはいけないというのです。純粋に天のものとして残さなければなりません。
ですから、訓読のみ言は生きています。そこに一致さえすれば、復興するのです。夜であれ早朝であれ、時間と季節を克服し、時代と世紀を克服して、み言が生きているというのです。活火山と同じです。きっかけさえあれば、炎が噴出するのです。