真の父母経 第303話
第一章 超教派運勤と宗教連合運動
第一節 宗教の真の意味
神について正しく教えるべき宗教
真の父母様は、一九四五年の光復とともに公式摂理路程を出発し、宗教を前に立てて、救援摂理と世界平和を主導しようとされた。そのため、宗教の役割について多大な関心をもたれ、一生涯、宗教間の和合のための努力をやめることはなかったのである。真の父母様は、無形でいらっしゃる神様の存在を強く認識させ、神様がどのような方かを正確に教えられる宗教が、真の宗教であると語られた。
1 今まで、世界的に多くの宗教がありましたが、その諸宗教は、何を教えなければならないのでしょうか。すべての宗教は、まず神様について正しく教えなければなりません。神様について教えるとき、漠然と教える宗教は、あやふやな宗教です。
神様がいらっしゃるならば、どのようなお方としていらっしゃるのか、神様の愛とはどのようなものかなどについて教えてくれる宗教が、真の宗教です。世界的な宗教の中で、このような、内的で深い事情をもって歩んできた宗教がキリスト教です。
キリスト教では、神様は父であると教えてきました。イエス様がこの地に来られて、「私は神様のひとり子である。人間の世の中に神様の息子として生まれた人は私しかいない」と宣布したのです。父の息子として生まれたというのは、父の骨髄、父の血肉を受けて生まれたということです。そのような父子の関係は、世の中のいかなる公式や法度でも断ち切ることができず、いかなる権勢や名誉でも否定することができません。
このような観点で、イエス様がこの地上で神様を父と呼んだのは、万代を治めることのできる特権的な中心使命をもってきたという事実を、万有の前に明らかにするものでした。
2 今日まで、人間は目に見える物質だけを追求してきた結果、二十世紀の物質文明を形成しました。しかし、見える物質世界だけを研究し、その価値だけを追求することが、人間の本来の欲求ではありませんでした。物質世界を超越した目に見えない世界と、無形の神様が存在するという事実を教えてくれるのが宗教です。
ですから、このような宗教理念によって、無形の神様のみ前に進み出ることを望み、神様のみ意を尋ねていく群れ、そのような民族、国家、人類がいるとすれば、彼らを中心として、二十世紀の物質文明を超越した新しい神様の世界、見えない世界が価値の中心となる新しい世界が成し遂げられるでしょう。
結局、人間が物質世界を追求していけば、物質の第一原因となる力の世界を経て、見えない世界に到達せざるを得ません。そして、究極的には、見える世界を主管する神様の世界に到達するようになるでしょう。
このように、見える世界は、見えない世界と相応的な関係を結びながら存在しています。そのため、一生懸命に祈り、精誠を捧げ、見えない世界に代わって、神様の胸の中に隠されている深い内的心情を体恤し、イエス様と聖霊の心情を体恤するようになれば、天上のすべての秘密を解き明かすことができるでしょう。
3 宗教とは、絶対に人間だけを中心にして語るものではありません。神様を母体とした教えが宗教です。これが宗教の発源であり、本源なので、神様を抜きにした宗教というものはあり得ないのです。そして、宗教を中心とした圏内でのみ、聖人になることができます。聖人になるためには、天意に従わなければならず、天情を紹介しなければなりません。
私たちがたたえる四大聖人たちは、教祖、または預言者です。そうだとすれば、聖人たちを誰がそのようにさせたのでしょうか。もし人間がさせたとすれば、人を中心とするはずですが、天意を中心としているのを見れば、神様が聖人たちを立てたとみなすことができます。そのようにしてつくられたのが、宗教文化圏世界です。
4 真の宗教は、架空の理想や架空の人類愛を説明するよりも、本然の問題に入っていき、人間が絶対に否定できないよう、神様に対する認識を何よりも強く植えつけられる宗教でなければなりません。それ以上に真の宗教と言えるものはありません。その価値は、今日この世界で最も貴いと言われるものを一千個、一万個渡しても、取り替えられないのです。歴史上のいかなる偉人や聖賢たちを統合しても、取り替えられないというのです。
そして、神様の実存に対する自覚をもった人がいるとすれば、歴史はその人から発展するようになります。そのような自覚された境地における個人的な認識観、国家観、世界観、宇宙観などが問題になるのです。
統一教会では神様の心情を語っていますが、これより次元が高いものはありません。心情問題は生活圏内で起きます。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛というものは、すべて生活圏内で始まるのです。ですから、神様の心情を語るとすれば、次元が違うというのです。
5 世界のあらゆる文化の歴史を見れば、その思想的な裏づけとなるものが宗教です。人類歴史と宗教は、運命を共にする関係にあります。ある時は時代を先取りしたり、ある時は後れたりしながら、今まで続いてきたのです。ですから宗教は、神様が理想世界と理想天国を築くための基盤です。
その宗教で教えてくれることは、たった一つです。神様を教えてくれるのです。神様を愛しなさいと教えます。人間の本心は、人類を創造し、この宇宙を創造した神様を尋ね求めていきたいと思うのです。ですから、宗教は、神様の原理を教えてあげなければなりません。
「宗教」の「宗」の字は、屋根の棟(むね)を表す「宗」の字です。宗教というのは、棟になる教え、すなわち、大梁(おおはり)になる教えです。そうだとすれば、神様の愛を教えてくれる以上に、何があるというのでしょうか。これ以上のことを教えてくれるところがありますか。
人間の欲望や人間の良心が最高に願うのは、神様を占領し、神様の愛を占領することです。人間が最高に希望するその頂上を教えてくれるのが宗教です。次元の高い宗教であるほど、神様を強調し、絶対者であるこの宇宙の創造主を畏敬し、その愛を教えるのです。
6 絶対的な神様がいるかいないかということは、この上なく重大な問題です。これは今世紀だけでなく、歴史を前にして、いかなる識者層や、いかなる聖人たちを通してでも解決すべき人類の課業です。時代的な課業であり、歴史的な課業だというのです。
そのため、思想的な面で神様を探し求めていく哲学的な世界の観点がありますが、それとは異なり、神様に出会って、神様から出発する神学的な世界観もあります。神様に出会って、神様と共に生活をするところから始め、世界の人類力どのようにして幸福に生きるかという問題を探究してきたのが宗教です。
宗教は、神様と共に生活する環境から出発しました。その生活舞台は、個人の生活だけでなく、家庭から社会、国家、世界の生活圏まで発展していきます。神様の生活理念を世界化するためには、全人類が文化的に異なり、地域的に異なり、歴史的な背景が異なり、また習慣が異なるので、そこに適応する宗教的な内容を中心として、神様と共に生活しなければならないというのです。
シャーマニズムを見てもそうです。神様と人間が関係を結ぶことにおいて、方向性を提示できなかったので、シャーマニズム化したのです。もし、そこに方向性があったとすれば、私たちが生きていく個人生活圏、家庭生活圏、民族生活圏、国家生活圏、世界生活圏を通して、偉大な宗教に発展してきたでしょう。
7 宗教は、真理だけで形成されたものではありません。宗旨というものは、真理だけではないのです。主義と思想は、真理を中心として進んでいきますが、宗教は、真理以外に心情が内包されるのです。これが違います。主義と思想には心情がありません。しかし、宗教は、子女と父母が言葉なくして愛し合うのと同じように、その何かが絡み合っています。論理的な条件を越えて動く、ある内容を備えているのです。しかし、主義はそうではありません。主義は組織的な結合です。心情的な結合ではなく、組織的な結合なのです。
私たちは、目標に向かって走る競争者として、その歴史的なコースに関する知識を備えなければならず、時代的な実情をよく把握しなければなりません。その次に、未来的な内容、その計画をある程度までは知っていてこそ、目標に向かって走っていけるのです。
このように、天に向かって自分の生命を懸けて進んでいくことにおいて、天の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情まで備えた人がいて、神様が今までこのコースを立て、築いてくるためにどれほど苦労されたかを感じる人がいるとすれば、その人はいかなる困難にぶつかっても、難なく突破して進んでいくだろうと見るのです。