自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第62話
二〇一八年一月、私はアフリカに向かいました。「アフリカワールドサミット二〇一八」の開催国にセネガルを選んだのは、そこに天が準備した義人がいたからです。イスラーム圈であるその国で、八百万人、あるいは一千万人以上の信徒を抱える首長たちが、独り娘の顕現を熱烈に歓迎したのです。
セネガルの義人、マンスール•ディウフ師は、イスラームで最も影響力のある指導者の一人です。そんな彼が、私の話に強く感化されたのです。彼はサミットをS分が直接準備しょうと、マッキー.サル大統領を訪ね、宗教指導者としての自らの名誉を懸けて、「真のお母様をここにお迎えしなければ、アフリカの歴史を委ねられる場所はほかにない」と訴えたのです。
マッキー•サル大統領は国際会議場をはじめ、サミットのための最先端施設、さらには大統領が使用する防弾車を用意するなど、準国賓として私を遇してくれました。私の行く先々で護衛に当たってくれたのも、大統領直属の警護チームでした。しかしながら、私がセネガルに到着した時点でもまだ、大統領自身がサミットに参加するかどうかは未確定だったのです。
私はマッキー•サル大統領に会い、四十分近く、天の摂理について説明しました。イスラーム国家のトップの前で、アダムとエバのことから、祝福の重要性、独り娘の摂理に至るまで説明したところ、その場に一緒にいた大臣たちまでが、非常に驚いた様子を見せました。
「明日、サミットに参加します」
話を終えると、マッキー•サル大統領は快く承諾しました。彼は、私が単に名誉や権力、何か世俗的な利益を追い求めているのではなく、切実に、そして真摯に、人類の救いのために取り組んでいることに感銘を受け、心を動かされたのです。
彼はそれから、あらゆる行政の力を動員してサミットを支援するとともに、全国で行事の生中継を視聴できるよう、指示してくれました。国営放送を通じて行事を生中継したというのは、驚くべきことでした。開会式で私は原稿なしで、神アフリカの摂理と人類の救いについて話しました。
「私は真の母と共に、神アフリカを建設したいです」
マッキー•サル大統領は答辞として、感謝の言葉を述べてくれました。開会式後、マッキー.サル大統領は信仰的に、「私は真のお母様の息子になります」とも告白しました。
二〇一九年六月、私は南アフリカを訪れ、ョハネスブルグでアフリカサミット、および「孝情ファミリー十万組祝福祝祭」を行いました〇天はこの一時のために、義人のサミュエル•ハデべ預言者を準備していました。一連の行事には、アフリカの全域から元.現職の大統領および首相十二人をはじめ、大臣や国会議員、宗教団体の長や宗教指導者五百人以上が参加し、アフリカにおける真の家庭運動の結実となりました。私は、アフリカ大陸がこの十万組の祝福家庭によって、世界の光、灯火としての神アフリカになるように祝願しました。
サミュエル.ハデべ預言者は、四百万人の信徒を抱える宗教団体の長で、霊的な指導者です。彼は自らを、将来来られる主を証す預言者と称し、「南アフリカ共和国と共に、アフリカが平和運動のために生涯を捧げてこられた韓鶴子総裁を独り娘、真の母として歓迎します」と証ししました。この日は、南アフリカの国営放送であるSABCが祝福行事全般を生中継し、国中がお祭りの雰囲気に包まれました。
その約半年前となる二〇一八年十一月、ネルソン.マンデラ元大統領の誕生百周年記念行事と祝福行事のために南アフリカを訪れた際、尹事務総長がハデべ預言者に、「お母様が呼んでいらっしゃいます」と伝えました。ハデべ預言者はその時、新たな教会を開拓するためにモザンビークを訪問していたのですが、そのメッセージを聞くや否や、すぐさま自分の専用機に飛び乗り、祝福式が行われるケ—プタウンに駆けつけたのです。私は彼に、摂理史を全般にわたって説明しました。人類に対する神様の創造理想、堕落、救済、そして独り娘の摂理に至るまで、詳細に話したのです。
ハデべ預言者はその話に感動し、私を母として受け入れ傲ること、すなわち私の息子となることを願い出ました。そして、たとえ自分が信奉する宗教と理論体系は違ったとしても、私のことを天が準備した独り娘、真の母として、証ししたのです。そのハデべ預言者に、尹事務総長が私の願いを伝えました。
「お母様は来年、十万組の祝福式を望んでいらっしゃいます」
彼は快く承諾しました。これまでアフリカを訪ねてきた多くの宗教指導者とは違い、私がひとえに、アフリカのために祝福を与えたい一心で来たことを悟ったのです。彼は、母の真の愛とは何かを知りました。そして、私に心情的な告白をすることによって、私と心を一つにしたのです。
ハデべ預言者は二〇一九年六月、祝福式の会場となったヨハネスブルグのオーランド.スタジアムの準備はもちろん、私が到着する空港のラウンジから、身辺を守る警護チームなど、行事の様々な準備を自ら手配しました。
それにとどまらず、同年十二月には同じヨハネスブルグで、今度は会場に二十万人、インタ—ネット中継を通して三百万人の祝福式を勝利してくれました。
私はアフリカサミットが行われた六月七日の午後、ヨハネスブルグのソウエトを訪れました。南アフリカは人種差別政策によって、人種間における過酷な試練を経験した国です。白人は、人口の大半を占めている黒人の土地を強奪丨)黒人が土地を買うことも借りることもできないようにしました。身分証がなければ、思うように出掛けることもできず、白人と同じレストランで食事をすることも、同じ、ハスに乗ることもできなかったのです。
ソウエトは、黒人隔離政策に対する抵抗運動が起こった地域であり、白人政権時代には黒人集団居住地として指定されていました。ノーベル平和賞を受賞したネルソン•マンデラ元大統領が青年期を過ごした家があり、同じくノ—ベル平和賞の受賞者でアフリカ人権運動の精神的支柱となったデズモンド.ツツ大主教が住んでいた場所でもあります。
一九七六年、白人植民地主義者の言語を強制的に使わせたために発生した「ソウエト蜂起」で、数千人の死傷者が出ました。まだ幼い子供たちも犠牲となった、本当に胸の痛む事件でした。
当時、警察の銃撃によって、十三歳のへクター.ピ—夕—ソンが最初の犠牲者の一人となったのですが、血を流して倒れた彼に、姉のアントワネットがすがりながら泣き叫んでいる写真は、南アフリカの歴史を変える導火線となりました。
私はこのソウェトの地で、人種隔離政策によって犠牲になった人々を救う儀式を行い、「皮膚の色の違いによって差別し、青少年から希望の芽を奪ってきた恨の歴史を清算して、祝福の道を天が開いてくださること」を祝願しました。暗い歴史に翻弄され、無念の死を遂げた霊魂を救うことこそ、独り娘が果たすべき重要な使命です。二〇一八年一月、セネガルのゴレ島で黒人奴隸の霊魂を解放したことと併せ、人種差別による犠牲者に対する解怨の役事は、アフリ力の黒人たちに新しい希望と勇気をもたらすきつかけとなりました。