自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第39話
命を預けて訪ねた場所
私は一九四八年、自由を求め、三十八度線を越えて韓国の地に来ました。一方、夫の文総裁はその頃、興南監獄に囚われていましたが、一九五〇年十月に国連軍が監獄を爆撃する中で解放され、自由の身となりました。
興南監獄では、国連軍の爆撃が激しくなると服役期間の長い人からどこかに連れ出され、処刑が始まったといいます。そして、ちょうど文総裁の番が回ってくるという中で、解放されたのです。天はこの切迫した状況をしっかりと目に留め、国連軍を通して、文総裁が南に下りていけるように導かれました。しかしその後、四十年以上経って一九九一年になるまで、私と夫は一度も故郷のある北の地に行けなかったのです。
私たち夫婦は世界を隅々まで回り、神様のみ言を伝えましたが、ほんの一時間で行ける北朝鮮には行けませんでした。北から南に下りてきた失郷民であれば、誰もがそうでしょうが、慕わしい故郷を目の前にしながらもそこに帰れないという切なさは、何をもってしても慰められません。しかし、私たち夫婦が北朝鮮に行こうとしていた理由は、単に「故郷が恋しいから」ではありませんでした。
韓半島は、私たちの思いとは全く関係なしに、二つに分かれてしまいました。それを嘆いてばかりいるわけにはいきません。私たちには分断を終わらせ、平和統一を成し遂げる責任があります。韓半島から対立と葛藤をなくすことが、世界平和を実現する第一歩です。ゴルバチョフ大統領との会談を終えて帰ってきた私たち夫婦は、一九九一年が終わる前に、北朝鮮の金日成主席に会うことを決心しました。その決心は、普通の人から見れば現実的には不可能な、夢物語でした。
文総裁は第二次世界大戦が終わった直後、北に行って伝道をしていたところ、李承晩のスバィだと疑われ、大同保安署に収監されました。過酷な拷問を受け、死ぬ一歩手前で釈放されましたが、しばらくするとまた、社会秩序の紊乱というでたらめな罪状で逮捕され、興南監獄に服役しながら強制労働をさせられました。そこで自由の身となるまで二年八力月の間、言い表せない苦難を味わったのです。
私の母と祖母もまた、ただ神様を信じているという理由から、共産主義統治下で監獄に入れられ、あらゆる苦難を経た末にようやく釈放されました。その後も、自由を求めてついには故郷を離れざるを得なくなり、家族とも別れなければなりませんでした。あの困難な脱出の旅を、私は忘れません。
また、一九七五年六月に百二十万を超える人々をソウルの汝矣島広場に集めて開催した救国世界大会をはじめ、私たちは世界各地で勝共運動を展開してきましたが、その中で、金日成主席が私たちを暗殺しようとしているという情報が何度も入りました。
しかし私たち夫婦は、それら数え切れないほどの事情を、すべて胸に納めました。そして、ただ南北の和解のために休まず祈っていたところ、一九九一年に入って動きがあり、金日成主席が私たち夫婦を招請したのです。
しつかりと封がされた招請状を、私たちはアメリカで秘密裏に受け取りました。私は誰に何を言うこともなく、冬服をトランクに詰め、文総裁と共にハワイの修練所に向かいました。周りの人々は不思議に思うばかりでした。
「ハワイは年中、暖かいのに、なぜ冬服を持って行かれるのだろう?」
私たち夫婦は、冬服をたくさん詰めたトランクを修練所の隅に置いておき、祈祷に専念しました。北朝鮮に行く前に、心の片隅に残っていたしこりをすべてほぐさなければならなかったのです。四十年以上前から、私たちを迫害してきた金日成主席を許さなければなりませんでした。
自分を殺そうとした怨讐としてのみ相手を考えてしまえば、許すことはできないでしょう。しかし、父母の立場、母の心情に立てば、許すことができるのです。刑場に出ていく息子を救うためなら、母親は国の法すら変えたいと思います。それが本然の父母の心です。私はそのような父母の愛をもって、怨警を許そうと決意しました。北朝鮮から無事に帰ってこられるようにしてほしい、という祈りはしませんでした。
祈りに没頭する、重い時間が流れました。ョシュアが堅固なエリコ城を崩すため、その周りを七周したように、私たち夫婦はハワイの島を行き来しながら精誠を尽くしました。そして、心の中に積もり積もっていたしこりがすべて消え去った後、ようやく何人かの信徒に、北朝鮮に行くことを伝えたのです。
「怨讐に会うため、そんな所にまで行くなんて……あまりに危険です」
「北朝鮮に行くというのは、モスクワに行くのとは全く訳が違います」
「金日成主席は絶対に入国を許可しないでしょう」
「たとえ入国できたとしても、北朝鮮から出国できるという保証はありませんI
周りの人々は万がIのことを考え、あらゆる心配をしてくれました。
しかし、過ぎし日の私的な感情にとどまっているわけにはいきませんでした。聖書には、ヤコブが彼を殺そうとした兄エサウを、千辛万苦の末、知恵と真心によって感動させたと記されています。そのように、私たち夫婦は金日成主席を心から許し、愛で抱きかかえなければならないことが分かっていました。それは、真実なる父母の心情でなければ、不可能なことでした。
数日後、私たちは澄み切った心で中国の北京に向かいました。北京空港の待合室で待機していると、北朝鮮の代表が来て、公式の招請文書を手渡してくれました。招請状には平壌の官印が鮮明に押されていました。そうして十一月三十日、私たち一行は金主席が送ってくれた朝鮮民航特別機JS215便に乗り込み、北に向かったのです。
飛行機は私たちのために、夫の故郷である定州の上空を通過した後、平壌に向かいました。飛行機が平安道を通る時、窓の外を見下ろすと清川江が見えました。青々とした水の流れが、まるで手でつかめるようでした。確かに私たちの山河ではあっても、南北に分かれ、訪れることのできなかった四十年余りの歳月に、心が痛んで仕方がありませんでした。
平壌の順安空港に到着すると、冷たい木枯らしに吹かれながら、夫の家族と親族が待っていました。夫が「私の妻です」と言って、私を紹介してくれました。彼らはみなずいぶん年を取っており、私たちの手を握つたまま、ただ涙を流すばかりでした。しかし、私と夫は泣きません
でした。心の中では滝のように涙があふれていましたが、唇を嚙み、ぐっとこらえたのです。
牡丹峰迎賓館に到着後、夫は北朝鮮の人々を前にして演説を行いました。夫と私は平和と統一のためなら、命を差し出すことも辞さないという覚悟でした。
翌日の十二月一日、私たち夫婦は日頃の習慣どおり、明け方に起き、祈祷をしました。もし迎賓館に監視カメラがあったならば、韓半島の統一のために慟哭しながら祈る姿が、すべて録画されているでしょう。朝食を食べてからは、平壌市内を見て回りました。
訪朝三日目となる十二月二日に万寿台議事堂で行った演説は、今や伝説となっています。主体思想の王国である北朝鮮の心臓部で、主体思想を批判し、「主体思想では南北を統一することはできない。統一教会が提示する神主義と頭翼思想によってのみ、南北が平和裏に統一され、全世界を主導する国になれる」と、誰にはばかることもなく、大声で語つたのです。さらに、彼らの常套句となっていた「韓国動乱は北への侵略である」という主張に対して、「南への侵略だ」と、正面から反駁しました。
誰もが驚かずにはいられませんでした。拳銃を腰に付けた北朝鮮の警護員が、すぐにでも銃を抜いて駆け寄ってきそうな雰囲気でした。同行していた信徒たちは、一様に冷や汗を流したことでしょう。これまで私は、夫と世界中を歴訪し、各国で多くの首脳に会いましたが、平壌では本当に悲壮な覚悟と深刻な決意を固めざるを得ませんでした。
訪朝六日目となる十二月五日には、へリコプタ—二台に分乗して、定州に向かいました。金
主席の指示で道路がよく整えられており、夫の両親の墓には芝が敷かれ、石碑も立てられていました。生家はペンキが塗られ、土間や庭には砂が敷き詰められるなど、しつかり補修されていました。夫は両親の墓を訪れ、献花しました。
私の故郷である安州の空が、彼方に望めました。温かく私を包んでくれた故郷の家はそのままあるだろうか、裏畑には今もトウモロコシが育っているのだろうか、祖父の墓はどこにあるのだろうか……。様々なことが気になりましたが、そんな素振りは見せないように努めました。
私たちが北朝鮮に来たのは、故郷に来たかったからでも、金剛山を見物したかったからでもありませんでした。金日成主席に会い、祖国の将来について談判するために来たのです。その歴史的な使命を前にして、個人的な感情を見せるわけにはいきませんでした。いつか、誰もが自由に故郷を訪れることのできる日が来るだろう。そう信じました。