イエス様の生涯と愛 第71話
パンとぶどう酒の意味
四千年間復活の摂理を通して、救いの役事をしてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理だけでは天上のみ旨と地上のみ旨を合わせて完結させることができないので、「新しい契約」を立てて、これで天上と地上のみ旨を合わせ、約束された本然の園を探し求める摂理をしてこられたことは、よく知っていることでしょう。
ここにおいて、イエス様が下さった杯(ぶどう酒)とパンは、正に「新しい契約」と言われました(ルカ二二・20参照)。イエス様が逝かれたのちに、私たちはそのイエス様の肉と血を受けたので、これはすなわち成し遂げなければならない全体の生命の代わりであると同時に、全体の真理の代わりであることを知らなければなりません。
イエス様の血とイエス様の肉を受け取ることは、何を象徴するのでしょうか。それはイエス様一個人の肉と血を言うのではありません。大きくは天と地を意味し、小さくは中心と個体を意味するのです。また肉は真理を象徴し、血は神霊を象徴します。
これらすべてのものは、イエス様が私たちに無条件に下さいました。そのように下さったイエス様の一身は、それ自体に限定された問題ももちろん問題ですが、彼を中心として連なっている天上天下のいかなる存在の問題も、すべて彼の問題だったということを知らなければなりません。
神様と人間との間にふさいでいたものとは何でしょうか。天のみ旨が地上に現れ、地上での全体の状況が天のみ旨に帰結されて一つの目的に動かなければならないのに、これがふさがってしまいました。そうして愛の主人公であられたイエス様は、勝利的な天の栄光に代わって現れるその一つのみ旨を表象して、今まで苦労してこられているのです。
神様が四千年間苦労してイエス様一人を立てられたことは、天全体を所有できることと、地全体を所有できることを表象されたのでした。それゆえイエス様を信じる人は、天のすべてを所有でき、地のすべても所有できるのです。ところがそのように所有したものを自分のものとしてのみ帰結させるのではなく、所有して再び天の前に返してさしあげるべき全体的な摂理のみ旨を私たちは委託されているのです。
イエス様が「新しい契約」を立てて逝かれたので、彼が亡くなった以後は霊的な世界と肉的な世界が人、すなわちイエス様に従う使徒たちを中心としてつながらなければならない条件が残されました。イエス様が亡くならなかったならば、イエス様を中心として天と地がつながったはずなのですが、亡くなることによって、イエス様は天の条件の代わりをするようになり、聖霊は地の条件の代わりをするようになったのです。