真の父母経 第386話
第三章 真の父母様の生活哲学と公的生活
第一節 真の父母様の生活哲学
真の愛に基づいた生活哲学
真の父母様は、人間が行くべきサタン屈服のための典型路程を歩まれた。蕩減復帰路程は、誰も行かない道を開拓し、地獄の底まで降りていかなければならない苦難の歩みである。真の父母様は、誰もが避けたいと思う状況でも、神様と人類の解放のために、真の愛を実践された。また、御自身の生命を狙った怨讐までも赦して抱かれ、人並み外れたその苦労は、神様までも感動させた。真のお父様は、常に投入し、忘れてしまわれた。死の脅威が常につきまとう興南肥料工場で強制労役をする時も、生命に値する握り飯を他の囚人に分け与えられ、人の重荷まで代わりに背負われた。真のお母様も、困難な食口たちの事情に接すれば、いつも温かい愛のみ手を差し出された。真の父母様は、いつどこでも、御自身の最も貴いものを惜しみなく与える生活をされたのである。
真の父母様のこのような生きざまは、神様を中心とした真の愛の生活哲学を示すものであり、天一国時代を生きていく私たち人間が守るべき生活原則でもある。
1 父母様の生活哲学は、「ために生きること」です。どこに行くにしても、ために生きるために行くのです。ですから、一つにするために精誠の限りを尽くして投入します。一〇〇パーセント以上投入すれば、一つになるようになっています。自分の父母の愛よりも、兄弟の愛よりもさらに大きい天の愛に触れれば、サタン世界の愛の圏内から離れて、天の側に移動していくのです。そのような原則的な力が倍加する、天の再創造の摂理観が現実的生活舞台に連結されることによって、神様の息子、娘の権勢を備え、全体を相続するようになるのです。一つになるためには投入しなければなりません。また、受けた人は、損害を与えてはいけません。必ずそこに感謝の行為を加えることによって、永続的な循環運動が可能になり、大宇宙世界と「私」が関係を結ぶことができるのです。
2 皆さんは、二つのものがあるとき、良いものは自分がもち、父母にはあまり良くないものをあげようと思ってはいけません。自分が直接比較して、二つのうち良いものをもとうとすれば、それは堕落した世界の伝統によるものなので下がっていき、二つのうち良いものをあげようとすれば、前より上がっていくのです。間違いなく上がります。それゆえ、神様を愛し、息子、娘を愛さなければなりません。そうすれば、地獄はなくなります。二つのもののうち、良いものを父母にあげることができ、良いものを息子にあげることができる世界は、正午定着の光り輝く世界になります。これが生活哲学の基本になっていなければなりません。父母様もそうです。貴いものがあれば、天のみ前に、子孫たちに譲ろうとするのであって、(自分が)使ってしまおうとは考えないのです。
3 皆さんが父母様を愛していることを知っています。私も皆さんを愛しています。皆さんを愛していますが、神様を中心として、神様の愛を通して愛しているのです。その神様の愛は、世界の人類の中にとどまる愛であって、統一教会の中にとどまる愛ではありません。世界にその愛を残してあげ、その愛を植えてあげるためには、皆さんを立たせて、そのようなことをせざるを得ないのです。皆さんを犠牲にし、苦労させるのは、世界を代表した愛の結実をもたらすことに貢献することによって、神様の愛を受けることができ、人類の愛を受けることができる統一教会の人にするためです。
神様の愛を受け、人類の愛を受ける人を育てるのが、統一教会の目的です。皆さんは、統一教会内で愛を受ける人ではありません。統一教会内で愛を受け、統一教会内で愛の欽慕を受ける人ではなく、神様の愛と人類の愛を受ける人にならなければなりません。ですから、私は皆さんを統一教会の中でだけ愛するより、人類と神様の愛の中で愛そうというのです。そのような師になろうというのです。このような観点を今までの宗教は提示できませんでした。このような志を立てそのように指導しようとする私自身が模範にならなければならないというのが一生の哲学です。
4 私はスーツを着るのが嫌いです。ネクタイを締めないで生活します。なぜでしょうか。ネクタイを締めてスーツを着る費用の十分の一を節約しようというのです。飢えて死んでいく大勢の人を助けるために、夜も昼も身もだえしているのです。このような人がたった一人いるというだけでも、この地上の人類の前に希望的な痕跡ではないかと考えて生きる人です。
水安堡(スアンボ)に行くと、私の泊まる部屋があり、浴室もありますが、きれいに造られています。浴室に入ると、いろいろなタオルがあるのですが、私がタオルを使うときは、いつも小さい物を使います。大きなバスタオルを使ったことがありません。なぜなら、そのタオルの代金を節約しなければならないからです。
そうして、一銭でも残し、飢え死にする人々を助けてあげなければなりません。私が家に入れば、靴下を履かないのも、それによって精誠を尽くし、その人々を助けてあげ、その人々が行く道を開拓しなければならないからです。真の父母の名は、恐ろしいのです。
5 お父様は、人間が本来行くべき道を行く人、すなわち、神様が願う人、神様が同情でき、神様のみ前に今まで流してみることのできなかった新しい涙を流せる人が、自分の生涯においてどのようになるかを考えてきました。
「今まで流せなかった新しい涙を流して死のう」というのが、生活哲学です。他の人のためではなく、お父様のために死んだ人がいるとすれば、お父様は、千年、万年、歳月が流れたとしても、その人を忘れられないでしょう。死ぬとしても、そのような心情と内容をもって、そのような場で死ななければなりません。
そのようにむち打たれ、血を吐きながら死ぬのが神様のためであるとすれば、神様はその人よりさらに深い悲しみの涙を流し、もどかしく思われるでしょう。そうすれば、そのとき神様は、歴史時代の誰よりも、私を通して悲しみ惜しむ事情を残すのではないでしょうか。
お父様は、今までこれを、畢生(ひっせい)の願いとして歩んできました。そのような意味では、このような道を行く人が世界万民の中に多くいるとしても、お父様ほどになっているでしょうか。そのような人はいないというのです。
*畢生(ひっせい):一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。
6 自分のためだけに生きる人、絶対的(に重要な)環境を尊重できない人は、無限なる発展の世界で、限界を露呈します。無限なる限界を自分が越えようとする前に、その本体である神様を立ててこそ、限界の基準を越えて無限なる発展の世界に越えていくのであって、そうでなければ越えることができないのです。今や最後まで来ました。何をもって生きるのでしょうか。愛をもって生きるのです。それが環境創造です。
環境を備えることができなかった人は、どこに行っても自分がとどまる場所すらありません。自滅する道を行くというのです。力が出ません。周辺の環境が喜ばず、力が伴わないのです。環境が次第に遠く離れていきます。昔は慕わしく思っていても、嫌うようになるのです。もっと慕わなければならないのですが、もっと慕うことができる道がありません。それは、自分自身を中心として境界線を張ったからです。「私」を中心として動こうと思えば、そこで定着し、その峠を越えられないので、宇宙との相関関係、相応関係の位置に入っていくことができないのです。原則に一致していない相対的存在は消えてしまいます。父母様は、そのような哲学をもって生きるのです。
7 完全な主体と完全な対象が一つになったものは、天理が保護しなければなりません。人間の事情と歴史的変遷が、これを動かすことはできません。いくら大韓民国の国権をもってしても、完全な主体の前に完全な対象となり、垂直を守っていく人は、打って倒すことができません。その人を打っても、天地が根と芽をしっかりとつかんでいるので、打って倒す存在がいないというのです。いくら大きくても、打った人が砕けるようになっています。それが生活哲学です。
神様を上にお迎えし、その下の垂直の位置で軸となって侍っている限り、それを神様がつかんで放さない限り、これを打った人が砕けるようになっているのです。これは家庭を代表し、氏族、民族、国家、世界、天宙を代表する柱になっていて、柱を保護できる天運が支えているため、打つ人は必ず砕けていくというのです。
8 父母様の生活はそうです。お金ができても自分が使おうという考えはありません。いくらおなかがすいても、私よりもっと空腹な人がいるので、そのような人のために残したいと思い、一時間、二時間、三時間、耐えて耐えるのです。他の人がおなかをすかせていれば、私よりその人に与え、その人が食べられるように、福を祈ってあげるのです。その人が食べられるように福を祈ってあげれば、その人が食べて福を受ける際に、同参(一緒に参加する)者になります。カインのために生きる人は、カインの福を相続できるのです。カインは変わりますが、私は変わらないので、しきりに上がっていくというのです。
み旨のために生きる人は、ヒマラヤ山脈のエベレスト山より高く上がり、太平洋の一万メートル以上の深さの所に根を下ろすというのです。