真の父母経 第97話
第二節 「成和青年会」
「成和」の意味と「成和青年会」
一九五四年十二月三十一日、協会に初めて「成和基督学生会」が出帆した。「成和」という名称は、真のお父様が直接、命名してくださったものであり、以後、多くの団体にその名称が活用された。み言によれば、「成和」は、完成と和動、すなわち互いに和して完成していくという意味である。「成和基督学生会」は、一九五五年三月二十七日、「成和青年会」に名を変え、一九六〇年まで協会活動の中心となった。この日、機関誌「成和」創刊号が発刊された。
1 皆さんは、「成和青年会」というこの字の意味を知らなければなりません。「成和」という言葉は、何かの刺激によって受動的な立場で和合しなさいということではありません。能動的に和合しなさいということです。
このような意味を中心として出発した皆さんなのに、朝は喜んでいても、夕方には泣いて騷ぎ、また夜になれば自分のしたいようにすべてしています。それではいけません。神様のみ旨を知る人たちであれば、朝に泣き、夕方や夜には喜ばなければなりません。それにもかかわらず、皆さんは、初めは喜んでいても、あとになって「ああだこうだ」と言って多くの条件を付けるのです。
ですから、成和学生の卒業生たちに苦労をさせるのです。皆さんを最前線に送り出して、倒れさせ、死の淵に追い込んでこそ、民族を救えるとすれば、そのようなことをさせなければなりません。
2 「成和」という言葉は、どのような意味があるのでしょうか。化学の「化」は本質まで変わりますが、成和の「和」は違います。絶対的な相対性と神様の本質としての「成和」だというのです。皆さんは、正にこの「成和」としてみ旨を果たしていくのです。
皆さんは、自分を中心とした世界観と生活観、自分を中心とした天的な心情を強固にしなければなりません。そうして、完全な種として結実して、殼を脱がなければなりません。それでこそ、真の穀物になるのです。それなのに、「先生の姿は立派だが、弟子たちの姿はそうではない」と言われてはいけません。
3 成和の「和」は、個性がそのまま生きているのです。「個性真理体」という言葉があります。ここに千人いれば、この千人はみなそれぞれ違います。個性をもっているのです。その個性を中心として一つになるのが「成和」です。「化合」は、個性が変わって一つになることですが、「成和」は、個性をもったまま一つになることを言います。
「成和」は、すべての個性が合わさって成し遂げたという意味なのです。そのように成し遂げることを「統一」と言います。各自の個性が連結されて完成すれば、完全に一つになるというのです。統一が成し遂げられるのです。
4 「成和青年会」の「成和」という字を調べてみると、「成」は完成を意味し、「和」は和動を意味します。「互いに和して完成していく」という意味になるのです。そのためには、第一に、皆さんがみ言の過程を通過しなければなりません。第二に、皆さんは、神様が相談できるほどの人格をもつ存在にならなければなりません。一つ一つ相談しなくても、心情的に通じなければならないのです。そして、何よりも、和動の中心にならなければなりません。前後、上下、左右に和合できる人格体にならなければならないのです。そうして、祝福の実体になることが標準です。
イエス様も、青年時代にみ旨の一線で働きました。三十歳前後の青年時代は、人生で最も重要な時期に該当します。お父様の若さに皆さんの若い情熱をプラスして働かなければなりません。再創造の偉業に加担して、栄光の条件を備えることができるのは、この一時しかありません。
私たちは徹頭徹尾、世の中の人たちに対して、「私はあなたたちと同じではない」という心情を備えなければなりません。「あなたたちは成し遂げることができないのか。私はできる!」、このような精神を常にもっていなければなりません。いかなる困難の中でも、「私はあなたたちと同じではない。歴史的にも、時代的にも、平面的にも、どこを見てもそうだ」と言えなければなりません。あらゆる困難なことに対して、「私」が動かなければならないという決心がなければなりません。
5 皆さんの中に、生命が躍動している青年男女はいるでしょうか。そのような人がいるとすれば、教会の牧師、長老の前に天倫を立証し、彼らの人格を批評して、天的な価値の前に審判できる資格を備えなければなりません。神様の心情に外れたことは、天上のいかなる存在も、地上のいかなる存在も受け入れないという覚悟をもたなければなりません。
皆さんは、統一教会に入ってきたのであれば、既成宗教の観念を超越しなければなりません。懐疑的な信仰観念を踏み越えて立たなければなりません。
今までの信仰観念の立場は、神様が臨在できる安息所になることができず、イエス様の実体に侍ることができる安息所になれないので、それを情け容赦なく踏み越えることができる勇断さをもたなければなりません。
6 若い人々は、その若い時期が長く続かないことを知らなければなりません。どのみちみ旨を知った人として、天のみ前に献身しようと進み出たのですから、貴い青春時代を何の未練もなく天のみ前に完全に捧げようというのです。そうすれば、それがどれほど貴いか、考えなければなりません。
時々、青春時代をみ旨と共に無意味に過ごしたと後悔する人々を目にします。そのような人々は、み旨がどのようなものであり、若い時代にみ旨と共に過ごしたことがどれほど価値のあることかを忘却した立場で不平を言い、嘆息するのです。
この若い時代には、必ず峠があります。各自には、必ず最高の絶頂期と言える青春時代があるのですが、その一時を誰と共に過ごすかが問題です。自分の一身や一家の幸福のために過ごすことより、国と世界のために、歴史とともに永遠に残り得る問題を中心として生きることが貴いというのです。
青年に対する時代的要求と使命
協会創立以降、中心となったのは青年と学生であった。意気衝天の勢いをもつ青年と学生は、教会の力であり、花だった。そして、草創期の食口たちは、大部分が社会的に地位のある人々であり、錚々(そうそう)たる顔ぶれだった。そのため、「統一教会は知識人だけが行く教会だ」といううわさも広まった。青年たちは、草創期の教会の柱として、民族と世界を復帰する先兵の役割を果たし、真のお父様も青年たちを野外に連れ出しては、克己訓練をさせ、自然と親しむ機会をもたせるなど、彼らを指導者として育成するために尽力された。
7 一般の大学生たちは、学校を卒業すれば社会に出ます。それから、家庭を築くようになります。それは、皆さんももちろんであり、お父様も同じです。形は似ています。学校を卒業したあと、大韓民国の国民の一員として国に貢献できる道を探し求めていくのです。
ですから、社会なら社会のある道徳圏内で生活をするようになります。男性は男性として、女性は女性として、家庭を築いて暮らすようになるでしょう。このように、向かっていく方向はみな同じです。しかし、社会に出た人は、その歩みが社会でとどまり、家庭に入った人は家庭でとどまるでしょう。その家庭と社会を越えて、国家と世界に向かい得る、自律的で自主的な信念で一日一日の生活を開拓していくことができず、その日その日を、生き甲斐をもって送り得る能動的な実体になれなければ、いつも悲観と失望の中で生きていくようになるのです。今、若者たちの中には、そのような人も多いでしょう。
しかし、私たちは、彼らとは行く方向は同じですが、立場が違います。家庭ができれば、私たちはその家庭の家長になりますが、一つの家庭の家長だけで終わるのではなく、自分を中心とした個人的な家庭の環境を打破し、氏族に連結され得る家庭の道をつくらなければなりません。そうして、民族を統合できる核心的な家庭の形態を備え、世界の家庭へと向かっていかなければなりません。このように、私たちは一般の青年たちと立場や考える範囲が違います。
私たちは、このような使命を果たすべき個体なので、このような面で影響力を発揮できる主体的な個体として能動的に実践するためには、外的に実力を備えなければなりません。そうして、力の母体にならなければならないのです。力がなければ、このすべてのことを達成し得ません。
8 青少年がもつべき誇りとは、どのようなものでなければならず、神様が訪ねてこられる青少年とはどのような人でしょうか。これが問題です。
それは、不信の先祖であるアダムとエバが汚した路程に従っていく青少年ではありません。疑ったり、不平不満を言ったりする若者たちではありません。「絶対犠牲、絶対信仰、絶対服従、絶対順応するのみである」と言える純粋な青少年でなければいけません。復帰時代の限界点が近づくこの時に生まれた成和の中高生、統一教会の青少年の皆さんが立っている立場は、流れていった歴史時代とは違います。皆さんは、霊界と肉界の統一的な基盤を備え、肉的(実体的)なアベルの基盤を備えて、新しい世界に登場しなければなりません。
「統一思想」を携え、この境界線を越えて、新しい旗手として旗を持って進み出るべき群れは、年を取った壮年や老人ではなく、血潮がたぎる若者たちです。そのような輝かしい青少年の群れを、この地球上のどこか一ヵ所からでも発見できるその日が来てこそ、神様の六千年の恨が解けるのであり、アダムの怨恨の基盤になっている罪悪の根を抜いて覆すことができるのです。これを発見できず、これと出会えなくなる時は、天宙が暗黒のまま延長されます。ですから、神様が呼び求めている世代は、青少年世代なのです。
9 皆さんは、先祖たちの歩んでいった路程を経なければなりません。私たちは今、荒野に出たイスラエル民族と同様です。モーセとイスラエル民族は、荒野で追われて苦難に遭い、イエス様は民族とユダヤ教から排斥され、家庭から不信されましたが、皆さんも、そのような悲しく悔しい立場を経なければなりません。だからといって、落胆しないでください。
皆さんがこのような悔しい立場で果たすべきことがあるとすれば、それは歴史的に苦難を受けられた父の心情を体恤し、先祖たちの苦痛は自分の苦痛だと思って、千年、万年、そのみ旨のために変わらずに団結し、サタンに対する敵愾心を抱いていかなければならないということです。そのようにできる青年男女を、天は求めているのです。このように、天的なみ旨に徹する本物の青年たちを、天は探し求めてこられました。
民族に代わって私たちにこのような使命を任せたとすれば、私たちは父の怨恨の心情を感じ、父の悲しみを自分の身に抱いて、怨讐に向かって進撃できる精兵にならなければなりません。そのために皆さんは、皆さんの生活と理念を統一させなければなりません。天の悲しみと、イエス様の悲しみと、先祖たちの悲しみと、子孫たちの悲しみを解怨するために、進まなければならないのです。
10 青年男女の皆さんは、自分自身が着飾る前に、この三千万の民族が着飾るようにしようという心、自分自身を考える前に、この地上の万民を考える心が湧き出なければなりません。さらには、一株の草までもつかんで泣いてあげられる心が、自分も知らぬ間に心中で爆発しなければなりません。このような心情をもつことができなければ、完全な神様の息子、娘になれないのです。そのような人間は、神様の涙の実であり、神様の苦痛の実であり、また神様の血の祭壇の上に上がる供え物なのです。
それでは、この民族の行く道を開拓する人は誰でしょうか。本当にこの民族のために地をたたき、胸を打ちながら痛哭する人が現れなければなりません。この世界を救う人は、青年男女たちなのです。