真の父母経 第41話

十六歳(数え)の時、神様からの召命を受ける

真のお父様は、長老派教会に入教する頃、新しい学問の修学とともに、思考の幅が広がってより深く考えるようになり、将来の問題と現実の問題について深刻な疑問に逢着された。理由も分からない中で起こる家の患難とともに、日本統治下における民族の悲惨な姿、そして、弱小民族の苦痛と悲哀を深く体感された。同時に、人生の根本問題について苦悩しながら、解決点を探そうと身もだえされた。そのような中、定州普通学校に転校した直後、十六歳になった年の一九三五年四月十七日の早朝に、長い時間、涙ながらに山上で祈りを捧げていたところ、イエス様の顕現を体験することになる。イエス様は、奥深く驚くべき事実を多く語られ、その後、何回にもわたって直接対話を交わされた。真のお父様は、神様から天命を受けられたのち、故郷とソウル留学、そして、日本の東京留学を経ながら、将来の摂理的使命者として、責任意識の体得と信仰を深化させる準備期間を過ごされた。

5   私は、十六歳(数え)になった年に、イエス様と出会い、深い霊的な体験をしたことがあります。それが啓示の始まりでした。その特別な出会いがあって以来、今まで、生きていらっしゃる神様と、イエス様を含めた霊界の聖賢たちと、絶え間なく対話をしてきました。その内容は、言葉では表現しきれません。神様は、御自身の摂理の時に従って私を選択されたのです。

6   私が悩み多き立場で神様を知る経験をし始めたのは、十六歳(数え)の時からでした。私は、少年時代から、「私は誰だろうか。私はどこから来たのか。人生の目的は何だろうか。死んだあと、私たちの命はそのまま続くのだろうか。また、神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるのか、あるいは無力であられるのか。もし神様が全能であられるのなら、なぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ数多くの苦痛が存在するのか」、このような人生の基本的問題について悩んでいました。

そうして、十六歳の時から九年間、私はいつも全能であられる神様、そしてイエス様と共に生活しました。また、何度も霊界に入ってみました。

神様は、徐々に驚くべき真理を示してくださいました。それは、まるで長く暗い夜が過ぎ去って朝日が昇るかのようでした。その真理の中で、栄光の新しい文化の曙光(しょこう)を見ることができました。新約聖書に基礎を置くこの特別な啓示は、ユダヤ教の教えよりはるかに素晴らしいものでした。この啓示は、あらゆる宗教を包摂して一つに結ぶことができる力と能力をもっています。私が受けたこの啓示は、今日「原理」と呼ばれており、(私は)神様からこの「原理」を地の果てまで伝えなさいという指示を受けました。

7   十六歳(数え)の時、どれほど深刻な立場にいたか分かりません。神様にとって最も困難であり、イエス様や宗教団体にとっても、最も困難な最後の時でした。韓国が日本の統治下に入ってコーナーに追われ、行き場のない三角地帯(窮地)にいたのです。天地と神様も、五大聖人たちも、宗教圏も、すべてが一点に集まりました。ですから、私もこの一点に対して召命的な責任があるので、その場に入っていくのです。

そうすると、私を中心とした家庭や韓国自体が、極めて深刻な立場に行くのです。夜も眠れませんでした。御飯を食べようにも御飯が喉を通りませんでした。それがすべて見えるのです。瞬く間に天下がすべて崩れそうなのに、その責任が私にあるというのです。ですから、どれほど深刻だったでしょうか。

8   私が受けた新しい啓示は、神様のみ旨をとても明確に解いたものです。そのみ旨は世界を救おうというものです。統一教会は、ある一つの宗派ではありません。統一教会は、世界を救うための運動を展開しているのです。このような私たちの運動に同参(一緒に参加すること)しているすべての人たちは、神様のみ言を通して、神様を中心とした個人、神様を中心とした家庭、神様を中心とした国家、そして、神様を中心とした世界という概念を明確に理解しています。

9   アダムとエバが十六歳(数え)で堕落したので、本性的内縁(内的な縁故)を中心として、天がアダムとエバを育ててきた心情の脈絡に乗ることができたのは、幼少の時から十六歳までです。特別に天が私を選び、立て、育ててこられたので、十六歳から霊界と肉界を一つにしていかなければなりません。

私は、この十六歳の本然の心情的な縁と連結されて育ったので、サタン世界は私に従ってこなければなりません。サタンは、兄の位置、祖父の位置、父の位置、宗教圏に先立って国家の位置で統治してきました。主管してきたのです。ですから、これが交差して入れ替わる時が、今までありませんでした。国が先に立って引っ張ってきました。私が十六歳の時からこれを連結させて、新しく天の秘密とサタンの秘密、また人類歴史の秘密をすべて知ることによって、これらを中心としてひっくり返していくのです。

10  私自身も、時には前が真っ暗な壁にぶつかることが多くありました。そのようなことがあるたびに、「神様は死んでいない」とおっしゃったその声が、私の骨髄にいまだ残っていることを、皆さんは知らないでしょう。私を召してくださった神様の切ない事情を、私は忘れていません。神様が、「お前は私のことだけを思っていなければならず、私のことを忘れてはならない」とお命じになったみ言が忘れられません。自分自身が哀れであることを感じれば感じるほど、私よりもかわいそうな方が神様であられることを、改めて感じさせられます。

私たちは、歴史の悔しさとともに、今まで耐え忍んでこられた父の心情を、無限に胸痛く体恤できなければなりません。そうして、「私は歴史上のいかなる息子、娘よりもお父様の心をよく知っている孝子の中の孝子、孝女の中の孝女になったではないですか」と言って、堂々と前に出て父を慰労してさしあげることができ、すべてのものを捧げられる息子、娘にならなければなりません。私はそのために闘ってきました。これからも、そのように生きていくでしょう。今や、いかなる宗教団体が統一教会に反対し、私に対して中傷し、謀略を仕掛けても、関係ありません。いかなる権限をもって抑えつけても、私たちのこの基盤を征服することはできないでしょう。

第三節   学生時代

書堂と小学校時代

真のお父様は、七歳から十三歳まで、書堂で漢文を学ばれた。特に暗記力に優れ、筆字においては、先生の代わりに手本の字を書くほど、抜群の才能を発揮された。その頃は、将来、博士学位を三つ以上取得することを夢見ながら、一九三三年に十四歳で圓峰(ウォンボン)学院に入り、進学試験の準備をしたのち、一九三四年、五山普通学校の三年に編入された。そして、一九三五年四月、日本語の勉強のために定州公立普通学校の四年に転校され、一九三八年三月二十五日、第二十九回卒業式において、すべての式次第が終わる頃、自ら進んで壇上に立ち、長時間、特別所見を発表された。日本の植民地教育政策の虚構性とその偽善的形態、個々人の教師に対する問題点を一つ一つ指摘された。これをきっかけに、真のお父様は、日本の警察から要注意人物として目をつけられることになる。

1   私には、絵を描く素質もあります。そのような方面に素質があるのです。書堂に行くと、既に八歳(数え)から九歳、十歳、二十歳、三十歳まで、年上の人もいました。字を上手に書けるようになるため、毎日字を書くのです。私は、十二歳になる前から、字を書く帳面に手本の字を書いてあげました。そうすると、その帳面に数百回書くことになります。それが習慣になると、もう違うのです。さっと見て、筆がどこに向かえばよいのか、一番上がどこに向かえばよいのかが分かります。ですから、とれほど長いものでもさっさっさっと書いて合わせるのです。普通ではありません。

私は、そのように書堂に通いながら初めて塾に行きました。そこで初めて絵を描いたのです。年上の人たちは、画仙紙という絵描き用の紙にすぐに絵を描きました。私は、画仙紙を前にして、描こうとする花を考えて構想を練るのです。画仙紙がこれぐらいだから、そこに合うようにするためにはどうすべきか、計算するのです。計算して、心で線を引き、それに沿って描いていくのです。一つ、二つと描いていくと、すべて入ります。そのようにして線さえ描けば、形が現れてくるのです。その次は、色塗りにかかっています。そうして、私が初めて描いた絵が塾の壁に貼られました。

2   私は十歳(数え)の時、書堂に通いましたが、その時は本を一日に一ページだけ覚えればよかったのです。三十分以内にすべて覚えるのです。精神を集中してすれば、三十分ですべて記憶することができます。それから書堂の先生のところに行って、すらすら暗唱すればよいのです。

そうしてすべて終えたなら、先生が昼寝をしている間、私は山を歩き回るのです。書堂の先生は、疲れるので昼寝をよくしました。ですから、蛙がどこにいて、鳥の巣がどこにあり、山犬がどこにいて、きのこはどこにあるのか、すべて調べておくのです。そのように歩き回ったので、母が私を捜し回っても見つけられなかったのです。

3   物心がついて、十歳(数え)を越えるまで書堂に通いました。なぜなら、私の家門では、外地に出て勉強した人たちはすべて客死したからです。また、摂理的に見ても、み旨から見ても、二番目に生まれた息子には、問題が起こりました。ですから、私の一族では、勉強させれば死ぬといううわさがあり、学校には行かせず、書堂で勉強させたのです。そのような立場で育ったお父様の一生は、すべて開拓と改革でした。

書堂に通う中、初めてみ旨の道を知ったのち、十六歳(数え)の時から心を決めて、私の行くべき道を考えるようになり、この書堂にばかりいてはいけないと思ったのです。飛行機が飛び、汽車が走る科学文明の時代がだんだんと拡張され、未来を引っ張っていくようになることをありありと感じる立場で、「このような書堂にばかりいてはいけない!」と思い、そこから革新が始まりました。

それで塾に入って勉強し、その当時で言えば、普通学校に入ったのです。

その時は五山普通学校でした。その学校の三学年に、編入試験を受けて入りました。そこで一年勉強したのですが、一生懸命しないわけにはいきませんでした。

Luke Higuchi