真の父母経 第310話
多様な超教派活動
統一教会と長老派教会、メソジスト教会の代表が講師となった連合復興会が、一九六六年八月十五日から三回にわたり、真の父母様は、一週間ずつソウルで開催された。これをきっかけに、一九六六年十一月七日、「基督教超教派運動本部」を創立され、これは、一九七四年、「超教派基督教協会」に改称された。また、一九八一年三月二十八日には、「国際クリスチャン教授アカデミー(ICPA)」を、一九八一年十一月十四日には「国際基督学生連合会(ICSA)」を創立された。
17 一九六八年九月九日、クリスチャン・アカデミーハウスにおいて、「新興宗教研究の集い」という名称で、統一教会がキリスト教界と正式に対話をするようになりました。その時には、キリスト教界の最高指導者など、私に反対していた指導者約四十人が参加しました。私たちは時期的に見て、このような時を迎えなければなりません。
彼らは数年前から反対してきた人々でした。彼らから見れば、私たちはみすぼらしい姿でしたが、時が過ぎてみると、彼らが考えていたものとは違うというのです。今や彼らに対し、同情の思いをもって現れる立場になりました。結局、その人々が私を迎え、統一教会の真理を推挙できるようになったということは、彼らが頭を下げるような段階に入ってきたことの傍証となるのです。
私たちは、韓国で多大な関心を呼び起こしてきました。「統一教会は恐ろしい。キリスト教も手を付けることができない。理論的に到底かなわない」と言うようになりました。統一教会は、そのような迫害の中でも、復帰の道を開拓してきました。天下のすべてのものが立ち上がって反対しても、私は海のような包容力をもって、そのすべてのものを迎えようというのです。
18 統一教会がアベルであれば、カイン教会を復帰しなければなりません。私たちは、アベルのために全力を注ぐのではなく、カインのために全力を注がなければなりません。それゆえ、統一教会は一九七一年に入ってから、キリスト教の牧師たちを対象に、「統一原理」公聴会を開催してきたのです。完全なアベルになるためには、カイン圏を復帰しなければなりません。そのようにしなければ、アベルとして勝利の位置に戻ってくることはできません。ですから、今日の統一教会が、統一教会のためだけに存在することはできません。それは歴史的運命です。
カインとアベルによって、そのように堕落の癌が生じたので、それを解消してあげなければ帰れない私たちです。それゆえ、統一教会はアベル教団として、カイン教団を屈服させる限界線を越えなければなりません。このようにカイン・アベルが和合し、同じ方向に進むようになるとき、大韓民国はアベル型の国家として吸収されるのです。キリスト教と統一教会が一つになった基盤の上で、民族と国家を中心にして、アベル的使命に責任をもち、進んでいくことができるのです。
19 統一教会は、これまで反対を受けてきましたが、一九七一年の末になって、昔の祭司長のような人々が原理を学び、秘密文書を書く状況にあります。「協会に加入する」と言う人々が大勢います。キリスト教が変わったというのです。
昔は、統一教会員が現れるだけで、目を三角にして大騒ぎしていた牧師たちが、今では統一教会員たちに、「来なさい」と言います。歓迎する人々が多くいるのです。それで最近は統一教会の牧会者たちが、「キリスト教の牧師だけを対象にするのではなく、長老たちまで対象にして原理公聴会をしてほしい」と言っているのです。
20 キリスト教の牧師たち、百人以上が統一教会の原理を聞きました。彼らは原理を聞いて感化され、「これまで、統一教会の文先生がどのような人なのか、知らなかった」と言いながら、昔は何も知らずに「文某を追い出そう」と言っていたというのです。
世の中が変わりました。今や、牧師たちも壇上に立って、「統一教会に行ってはいけない」という話ができなくなりました。名のある牧師たちは、すべて参加しました。自分たちが統一教会の原理を聞き、学んでおきながら、信徒たちに対して「統一教会に行ってはいけない」とは言えないというのです。
21 韓国の有名な神学者の一人が、ソウルのある教会で(「統一原理」を評価するような)講演をすることによって、統一教会は到底取り除くことができないものとして認識され、統一教会に対して恐怖を感じる群れまで現れました。
また、私たちの超教派運動に対して、キリスト教指導者たちの関心が高まりました。そのような立場になったので、私たちは対キリスト教の活動と大学生の運動を活発に展開しなければなりません。思想的な面では、統一教会でなければならないことを全国的に認識させなければなりません。今から、世界のどこに行っても、統一教会の歌声が聞こえるようにしなければならないのです。
22 全国的に、私たちを歓迎する局面に入ってきています。ですから、新しいブームを起こすことができるように努力しなければなりません。一番の近道は、復興会をすることです。ソウルですれば、全国をカバーできる起源になります。ソウルでできなければ、各地方ででもしなければなりません。一つの道ででもすることができれば、そこに集中して、キリスト教徒たちと統一教会員たちの和合運動をしなければなりません。そのようにしてこそ、国が生き、世界が生きます。摂理の方向が、そのようにある一点から解けていくのです。その一点が韓国になるとすれば、世界的に祖国の使命を果たしたというしるしが付くのです。
23 クリスチャンの学生たちは、原理を一度でも聞けば先発隊になります。一般人がそのようになるためには、原理を聞いて六ヵ月から一年半はかかりますが、クリスチャンの学生たちは、一週間だけ原理を聞けば、先発隊になるのです。
今、大学にいるクリスチャンたちを誰が動かすかが問題です。「全国大学原理研究会」の学生たちと「世界平和教授アカデミー」の教授たちでは動かせません。しかし、大学にいるクリスチャンたちを中心として、クリスチャンの教授とクリスチャンの学生が一つになれば、一般の教授までも動かすことができるのです。
24 キリスト教の最高責任者たちに、私が「聖地巡礼をさせてあげよう」と言いました。ですから今、キリスト教が大騷ぎしています。私がキリスト教を復興させてあげるために行うのです。長老や牧師たちが八時間だけ私の話を聞けば、完全に私たちの側につきます。彼らが反論せず、すべて「良い」と言うというのです。
既に夕方になり、日も沈んで真っ暗になってきているのですが、明かりは統一教会の上を照らすのです。否応なく、そのようになります。そのような意味で、キリスト教と統一教会にとって転換期になったというのです。この転換期は、キリスト教を中心として見れば、歴史的で重要な時期です。霊的基盤しかなかった時代から、肉的基盤を相続できる時代に入るのです。
第四節 宗教連合運動と世界平和
神様を中心とした宗教連合運動
真の父母様は、各宗教において信奉する中心存在はすべて、唯一なる神様に帰一することを明らかにされ、神様を中心とした宗教連合運動を展開された。特に、「世界平和を実現するためには、宗派主義を克服し、宗教の背後で役事される神様を正しく知らなければならない」と語られた。
1 今日、世界的な大宗教として、キリスト教、イスラーム、仏教、儒教があります。これらの宗教は、文化背景が異なる各地域を収拾して、一つの世界に連結させることのできる道を形成してきました。そのような宗教文化圏を背後にして、一つの世界に前進していかなければなりません。ですから、絶対的な神様の摂理を中心として、「終わりの日」が近づけば近づくほど、宗教連合運動に連結されていくのです。
2 この世界では、一つの世界、平和の世界を追求する理想主義者たちが現れて、これを主張しています。それにもかかわらず、宗教者たちはいまだに宗派主義を脱皮できずにいます。これは、神様のみ旨から見るとき、この上なく後退的であり、分別のない立場です。
神様は多くの宗教を必要としません。神様は、宗教が神様のみ旨に依拠して互いに一つとなり、世界の解放のために生きて、この地上の悪を撤廃し、善の世界をつくるために前進していくことを願っています。宗派的な立場で争う宗教は願いません。
このように見るとき、次元の高い文化が次元の低い文化を吸収したのと同じように、次元の高い宗教は次元の低い宗教を吸収するようになるのです。無理やりそのようにするのではなく、自然にそのようにならざるを得ないのです。なぜなら、それはより良い世界に発展していくために、避けられないことだからです。
3 神様が願う世界は、二つではありません。一つです。神様は絶対的なので神様が計画し願う世界は一つです。そうだとすれば、その神様が始めた創造時代から今に至るまで、人類を中心として綴っていくすべての歴史的な方向は、一つでなければならないはずですが、一つではありませんでした。これは、何ゆえでしょうか。
人間が堕落したので、このように多様な方向を経ていく人類の姿になったことを否定できません。このように多様な方向を、いかに一つの目的に向かわせることができるようにするかが、今に至るまで混乱と苦痛の中に置かれている人類を救おうとする神様の摂理なのです。
宗教で信じる神様は、様々な名前をもち、その表現が違います。しかし、その宗教で信奉する中心存在は、唯一の神様に帰一します。その宗教が教える方向と目的は、いつでも一つです。宗教は、それを標準として進んでいます。ですから最後にはすべての宗教が自分なりの道を収拾し、一大変革時代を迎えなければなりません。
4 この地上には数多くの宗教があります。人類が分散されているので、人類を収拾しようとすれば、自然と各民族に合った宗教が必要になります。それぞれの歴史と環境、文化の背景と風習、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的に収拾するためには、数多くの宗派がなければなりません。例えば、川を見ると、上流には数多くの支流があります。この数多くの支流が降りてくれば降りてくるほど、互いに合流しながらその数が次第に減ってきて、結局は一つの川になって大海に入っていくのです。同じように、数多くの宗教も一つの流れに合わさり、最後には神様を心の中に迎え、神様の愛を占領する所にとどまるようになるのです。