真の父母経 第281話

5   陸地では、風の吹く音、木の枝が揺れる音、人の声、ねずみが通る音など、ありとあらゆる音がします。しかし、海には水の音一つしかありません。音がしても、すべて同じ音なので気にならないのです。遠くに出ていけば、はえが飛び回る音もしません。人間はいないというのです。ですから、どれほど素晴らしいでしょうか。修養において、これ以上に良いものはないと考えるのです。修養は、瞑想と訓練の過程です。精神世界では、これを和合することが修養です。

ですから、お父様は家にいないで、小さな「ワン・ホープ」という船に乗り、風が吹く海に出ていきます。船は楽ではありません。しかし、精神的姿勢においては、中心をつかむことができるのです。

6   人々は、船に乗って海に出て、釣りをするなら、天気が良く、気分の良いときに出掛けようとします。それは普通の人が考えることです。特別な人になるためには、にわか雨が降り、雷が鳴る環境でも釣りをしてみなければなりません。雨が降るとき、周辺の水がどのように変わり、その水が動くことによって、魚にどのような影響を与えるかは、豪雨が降り注ぐ場で釣りをしてみなければ分からないのです。

7   お父様は「天勝号」を一九六三年に造りましたが、アメリカに行ってその伝統を受け継ぎ、「ワン・ホープ」という船を造りました。「トゥー(two)・ホープ」ではなく、「ワン(one)・ホープ」です。一つの希望です。絶対希望、絶対愛、絶対唯一の中で、お父様が考えていた思想的誇りとその目的と方向性の一致、三位一体圏を中心として、一方通行をするのです。

数十年間、船に乗りました。朝五時から日が沈むまで乗ったのです。麗水に来て見てみると、私が昼の十二時に出れば、皆さんも付いてきてその時間に出ようとします。それはよいのです。しかし、皆さんの一代でお父様のすべての伝統を引き継いでいかなければなりません。お父様は、朝五時から海に出て、魚がいないのに精誠を尽くしました。

8   アラスカで魚を釣るとき、私たちが早朝に船に乗って出掛けるのを見て、沿岸警備隊が、「魚釣りを何かの訓練のようにしている」と言っては訪ねてきて、「どのようにしたらそのように生きられるのか」と感服し、称賛して帰っていきました。海に行っても、私が一番上手に釣りをするのです。今、鯨を獲ろうとすれば、一日に数頭は獲れるでしょう。鮪から何から、獲ってみたことのない魚がないのです。太平洋、大西洋、地中海をすべて回り、獲ってみたことのない魚がありません。ですから、世事に通じているのです。

9   世界の人々が、お父様のことを神秘的な男だと思っています。神秘的な話も上手です。そして、神秘的な行動もよくします。私は船に乗って海に出れば、漁夫の王様です。「あの人は統一教会の教主なのに、何が分かるのか」と思うかもしれませんが、現場に行って監督すれば、十年や二十年してきた人々も感嘆するのです。農場に行けば、農作業も上手です。学者たちは、自らのことを神秘的な人間だと思うのですが、お父様に会えば、お父様を見て「もっと神秘的な人だ」と言うのです。何が神秘的にするのでしょうか。真の愛がそのようにするのです。

10  釣り人が魚と闘うのは、最高の闘いです。射撃手が射撃をするとき、そのような精神をもってすれば百発百中でしょう。そのような態度が、本当に必要です。釣りをしてみると、良い点がたくさんあります。夜、静かに座り、波を眺めて変化する姿や、雲を眺めて変化する様子を観察しながら、そのように千変万化の中で一晩を過ごしてみると、それが本当に良いというのです。それが必要です。そのようなときにも、悲喜がたくさんあるのです。

釣りをしながら、魚を釣るときは、「やあ、これがかかったな」と言って、最初にかかったものをこの上なく愛するようになります。「私の手を通して釣るのだ。じっくり見てみよう。どのような魚が現れるか」と考え、どれほど真剣か分かりません。自分の主観的な考えや思想によって、その相対的価値は高く、深く、千態万象の価値として上がったり下がったりするのです。

11  海を知らなければなりません。海の底にうつ伏せになって、王の振る舞いをするのがハリバットです。それはうつ伏せになって暮らします。目がアンテナのように飛び出ていて、海の底に棲むため、ちょうど苔の生えた岩のようです。そのようにうつ伏せになっているので、小さな魚たちがにおいを嗅ぎつけて集まるのです。その魚たちを、ハリバットは体をよじらせて捕まえ、のみ込みます。うつ伏せになって暮らすのです。

それが、釣り針に掛かって引き上げられても、「世の中で誰が俺に手を出すのか」と言いながら身じろぎもせずにいるのですが、そのうち「いやあ、大変なことになった!」と思うのです。そのようなハリバットが、お父様に雷を落とされました。コディアクで八十パウンド以上のものを釣った人かほとんどいなかったのですが、お父様が二百パウンド、三百パウンドのハリバットを釣ったのです。

12  お父様は、鮭を好むのですが、なぜ好きなのでしょうか。このような種類の魚はいないというのです。鮭は勇敢です。五大洋を泳ぎ回ります。水がある所は、どこにでも行くのです。そして、おいしいのです。他のものは、食べるときに十分に火を通して食べるとか、調味料をかけて食べなければならないのですが、これはそのまま食べてもよいのです。

その次に、愛のゆえに鮭が好きなのです。四年ないしは六年ぶりに自分が生まれた故郷に帰ってくるのですが、どのようにしてタイミングを合わせて帰ってくることができるのかというのです。やって来て二週間以内に、約束していたかのように雄と雌が出会うのです。アダムとエバが本然のエデンの園を離れ、六千年の歳月を経て再び戻ってきて、愛し合うのと同じです。それ以上にならなければなりません。そして、鮭は子供のために死ぬのです。愛して死ぬというのです。愛が生命より重要です。これが復帰摂理において、統一教会員たちが行くべき道です。統一教会員は、愛の氏族なのです。

13  鮪の季節になって海に行けば、集まっている五百隻の船がすべてライバルのように感じられます。私一人で釣りができたら良いのにと思うのですが、そのような日はありません。

それで、ある時は、暴風警報が出ているのに海に出掛けようとしました。ですから、みな、「出てはいけない」と言うのです。それでも海に出ました。近い所に行くのではありません。二時間以上かかるので、夜一時に出発するのです。四時に到着しようとすれば、一時には出なければなりません。暴風雨が吹きつけるので、倍の時間がかかるため、夜の十二時に出航しました。生涯路程にそのようなことが多くあるのですが、その材料は億万のお金を払っても買えないのです。そのような天気なので、海に出ている船は一隻もありませんでした。

そこに行って、釣り糸を垂らすやいなや、魚たちが争うようにして食いついてくるのです。(普段は)何隻もの船が垂らしていた釣り針に数十匹が食いついていたのですが、(この日は)釣り針が一つしかないので、飢えた魚の群れが押し寄せてきて、食いつくようになっています。ですから釣り糸を入れると、さっと食いついたのです。暴風雨など、吹くなら吹き、やむならやめばよいのであって、私が暴風雨を気にするでしょうか。ただ汗を流しながら、釣りをしたのです。

14  釣り針を入れれば魚が釣れると思っていますが、とんでもないことです!魚たちが戯れる水温はそれぞれ違うのです。魚の大小によって戯れる所の水温が変わります。夏は水面に近づくほど、水温が高くなります。ですから、小さな魚たちが水面に棲むのです。海水の温度によって魚たちが移動するというのです。魚は、縦に動くのを一番嫌います。いつも横に移動しようとするのです。釣りをしようとすれば、そのようなことを知らなければなりません。

鮭も、どこで釣るべきかを知らなければならないのです。ですから、専門家にならなければなりません。専門家になろうとすれば、勉強が必要です。専門家にならなければ、魚を釣れません。お父様は水温に合わせて釣りをします。水温がどのくらいならどのような魚がいるかということが分かるのです。

15  私は、釣りに行けば、魚のいる所が分かります。朝と夕方は、魚たちが食べる物を探し回ります。

その次に、昼時には既に何かを食べ終わったあとなので、遊び回るのです。水深が深くてはいけません。ある所は深く、ある所は平らでなければなりません。魚たちは隠れるために、深い所に逃げていきます。水深が浅い所に出てきて遊ぶとしても、平らな所に出てきて遊ぶのです。午前はそうです。

午後にはまた食べるものを探し求めるので、水面を見て、「ここにはこのような魚がいるようだ」ということが分かるのです。

16  釣りをするなら、今、自分の釣り針が水面から何メートル下にあるのかが分からなければなりません。底から一フィートくらいの所が、魚が餌を取って食べるのに良い所です。そこで生活しているので、二フィート以上の所には行けないというのです。そのように釣り針を垂らしておけば、毎回釣ることができます。

そうして、糸が少し引っ張られる感触があれば、思い切り引き寄せなければなりません。それが技術です。鮪は、海で自分が天下一であるかのように、自由に生きている魚ですから、小さな餌には掛かりません。掛かるようにしなければならないのです。それを研究しなければなりません。

Atsuki Imamura